中国パワーの脊梁 北京の中軸線
馬場公彦=文・写真
初めて中国を訪れる人、久々に中国を再訪した人がまず行きたい場所は、天安門だろう。そこで記念写真に収まらないと中国に来た気にならない。
伝統的にとりわけ重要なスペースは、故宮の太和殿を中核として、北は鐘楼から南は永定門まで南北に7・8㌔にわたって伸びる中軸線とそれを囲む外城の内部。そこには中華文明の脊梁が走っている。
北京で最初に中軸線を定めたのは、統一王朝として初めて1272年に大都(今の北京)を首都に定めた元のフビライ帝で、当時は突厥語で「汗八里(大汗の居所)」と称した。
北京の水系をたどった際にも大いに参照させていただいた地理・歴史学者の侯仁之博士が書いた『北平歴史地理』によると、中華帝国の中心として、北方の遊牧民族と南方の農耕民族とを包摂する最適の中心として北京が首都に選ばれた。首都の都市計画を設計し建言したのはフビライに重用された漢人僧侶、劉秉忠。
彼は皇城の方位と中軸線を確定するに当たって、天上の紫微星―北斗星の位置を地上に反映させて宮城(紫禁城)とし、古代の『周礼・考工記』の記載を踏まえて、鐘楼を中心に方形の外城を設計し、碁盤の目のような街道を区画、四周の11門の城楼、住宅地・市場・祖廟・社稷壇などを配置した。
解放後、北京の城壁と城門は取り壊されたが、中軸線及びその周辺は、世界文化遺産登録を目指して2022年に北京市の文化遺産保護条例が施行され、往時を偲ばせる修繕がなされ開放されている。
そこで1月末の週末の早朝に、王朝のパワースポットを体感してみようと、中軸線上に走る龍脈を走破してみた。起点は南端の永定門。1958年に壊されたあと、2004年に修築されたものだ。春節に当たり、お上りさんはちらほら見掛けたが、早朝ということもあって地元民はほとんど見掛けない。家来のいない皇帝の気分だ。
「北京中軸」の鉄製プレートが埋め込まれた永定門の御道を北上し、東西に天壇と先農壇の広大な敷地を眺め、天橋を過ぎて前門に続く道の中軸線上に敷かれた観光客向けの市電の線路上を歩く。1924年、北京で最初に開通したこの電車は、当時「ダンダン車」と呼ばれた。日本でいえば「チンチン電車」だ。
正陽門を過ぎると、パスポートチェックを受けて天安門広場に入る。ここから毛沢東像が掲げられた天安門までの中軸線上には、毛沢東紀念堂、梁思成が設計した人民英雄紀念碑、国旗掲揚台が布置されている。天安門広場は中華文明のパワーの源泉としての中軸線を現代に蘇らせたものだ。天安門で写真を撮って、午門を潜る。
前日予約を怠ったため、故宮には入れず、故宮内城の堀川に沿って南池子―北池子大街を歩いて、再び左折して神武門に至り中軸線に戻る。道を挟んで景山公園に入り、山上から南北に櫛比する楼閣の壮観を視界に収める。再び中軸線をたどり、前海から開削した通恵河に掛かる万寧橋を過ぎると、小さな食堂や土産物店がひしめき観光客が集まる一画に出る。ここも元代には市場が軒を連ね交易でにぎわったという。
鼓楼を過ぎ、鐘楼に上り、首都を彩る新旧文明の精粋のパノラマを一望した。はるか北方にはオリンピック公園の尖塔が見える。まさに中軸線の延長線上に建てたのだ。2008年の北京オリンピック開会式では、中軸線に沿って永定門からオリンピック塔まで、蔡国強が仕掛けた花火が燃え盛った。
初夏の5月中旬、首都博物館で開催されていた「煌めく中軸」特別展を参観した。中軸線を中心とした北京市の巨大ジオラマ、CGを駆使した展示、故宮の百官たちの楽舞儀礼を絵巻風に再現する高画質の動画など、先端技術を駆使した展示は臨場感にあふれていた。
武力で制覇した騎馬民族王朝とのみ元を理解するのは一面的に過ぎる。中軸線を歩いてみると、多民族による統治、中華古典の礼秩序の再現、時空間を超越した世界観など、世界帝国としての元の偉業が伝わってくるのである。
首都博物館での特別展「煌めく中軸」にて。北京市の巨大ジオラマ(5月14日)