古寺巡礼① ―― 法海禅寺

2023-08-26 18:20:00

馬場公彦=文・写真

年7月の夏季休暇のさなか、市街のうだるような暑さから逃れようと、電動バイクで永定渠沿いにひたすら西に向かって15㌔走らせると、小高い丘陵が眼前に近づいてきた。 

そこは模式口という地区で、隣接する山全体が森林公園となっていた。模式口大街の入り口には、ラクダの銅製モニュメントが飾られている。案内板の説明によると、かつては「磨石口」といい、ここらから永定河を越えて西に広がる門頭溝区には炭鉱が広がり、採掘した石炭や石材を駱駝の背に乗せて、山中に開いた京西古道を通って市街地に運んだその入り口に当たっていた。 

老舎の小説『駱駝祥子』は、ここ模式口が舞台となっている。第1次世界大戦後、民族資本による産業化が進んだ1922年に、北京で初めての民族電業会社がここに設立され、発電所が建設され、北京で最初に電気が通じた所だという。そこで産業発展のモデル村とされ、磨石口から模式(モデル)口に改称された。 

模式口大街から森林公園に向かって北街を登っていくと、公園の入り口には法海禅寺がひっそりと建っていた。山門から入ると大雄宝殿の左右に植えられた立派な白皮松が目を引く。説明によれば、北京に現存する最長寿の白皮松の一つで、樹齢は1000年以上、「白龍松」と呼ばれている。この寺は宝殿内部の壁画で知られる。ただこの時は予備知識なしでの訪問だったため、事前予約もせず、壁画を拝観することはできなかった。 

そこで旧暦の盂蘭盆会に当たる8月12日、畏友の楊多傑、周静平ご夫妻に誘われて、壁画参観の事前予約をして法海禅寺を再訪した。今回はもっぱら壁画鑑賞が目的である。参観は1日100人限度、1回十数人で、壁画の損傷を防ぐため、土足禁止、スリッパ履き替え、照明はなく、各自貸与された懐中電灯を照らすだけ、在室時間は20分ほどと厳しい制限を課している。絵画や仏教美術の門外漢である私にも、参観料100元の大枚をはたいても決して高いとは思わせないほどの出来栄えだった。 

壁画は10面の壁に描かれ、高さは3・2㍍から4・5㍍のものまで、横は11㍍に及ぶ絵もあり、総面積は236平方㍍に達する。観音菩薩をはじめとする77体の人物の中には孔子や老子も含まれ、三教一体の宗教世界を仏画で表現するほか、白象、獅子などの神獣、法具や建具などの器物、草花や樹木など、隙間なく精緻に描かれており、見ているだけでも崇高な神々しい気分になる。天然の鉱物を使って壁画に着色しているため、500年以上経た現在でも退色しておらず、当時の美しさをとどめている。遠近法も取り入れられていて立体感と躍動感があって、あたかも眼前に降臨してきたかのような観音像の前で思わず合掌した。 

焼損して写真でしか鑑賞できないのが残念だが、時代は大きく異なるものの、法隆寺金堂壁画の荘厳さと通じるものがあるように感じた。 

法海寺は説明のビデオによると、明の第4代英宗の太監である李童が引退後に、翠微山という風水の良い場所を選んで4年の歳月をかけて1443年に開基したもの。1950年に時の文化部長の沈雁冰(作家の茅盾)がその文化的価値を認めて保存を指示し、郭沫若は敦煌の莫高窟、山西の永楽宮と並ぶ最高の壁画芸術と絶賛した。明代の数少ない今に残る壁画作品である。本連載19回でルポした雲居寺同様、北京市内の「東方の敦煌」ともいうべき名刹だ。 

新中国成立間もない当時、解放軍がここに駐留し、衣服掛けとして壁に釘を打ち付けたその跡が残っている。「文革」中には一人の工人が壁画を守り、紅衛兵を立ち入らせなかったことで破壊を免れた。のちに中央美術学院の教授により寺院外部に立つ碑文から明代の工部営繕所の画工と169人の皇家工匠が壁画制作に関わったことが判明した。これだけの寸分の隙もない作品を残した名匠たちの高い技能の程がうかがえる。 

明の太監らは風水の良いここの丘陵一帯に多くの墓苑を設けた。楊さんに案内されて模式口の石景山区石刻文物園に展示された宦官たちの墓碑や墓室を訪れた。後嗣のいない彼らは、独りの墓室に葬られてのち、後人にいかなる思いを残そうとしたのか。臨終を迎える末期の彼らに思いをはせると、栄華を極めたかもしれないその生涯との対比がしのばれて、切なさが募った。 


法海禅寺壁画「普賢菩薩」の前で

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