古寺巡礼② ―― 戒台寺・潭柘寺
馬場公彦=文・写真
6月のとある日曜日、前回訪れた石景山区の法海禅寺からさらに西を目指した。リニアモーターカーのS1線に乗り、永定河を越えて門頭溝区に入り、終点の石廠駅から馬鞍山を少し上ったところに戒台寺はある。山道は早朝ということもあって参詣客はいなかったが、サイクリストたちが行き交っていた。寺の山門近くには彼ら目当ての喫茶サービスの商売をする自家用車が3台ほど停まっていた。
戒台寺は隋代に開基された1400年以上の歴史のある名刹で、杭州の昭慶寺、泉州の開元寺と並んで中国三大戒壇の寺。「選佛場」の扁額が掛かった仏殿に戒壇はあり、底辺が10㍍余りで3層からなり、側面に多数のがうがたれ、台上に漆金の釈迦牟尼仏が鎮座していた。
大雄宝殿の左右対称に設置され長く伸びた仏殿には等身大の五百羅漢が4段にびっしりと並べられ、どの表情も仕草も個性的で見飽きない。南北一対に建てられた石塔は遼代のもので古色蒼然として、石刻の保存状態が良い。佛道混淆というのか、境内には九仙殿や関帝廟まであった。
戒台寺を後にして山道を歩いていると、山腹の所々に季節ごとの花を求めて移動する養蜂家たちが自家製蜂蜜を販売していた。路線バスの停留所まで歩き、終点の潭柘寺へ。この寺の開基は西晋時代だから、1700年近く前で、戒台寺よりさらに古い。
観音殿に入ると両脚の足跡が刻まれた石板が展示されていた。元の世祖フビライの娘、妙厳公主は若き頃は「馬上女将」として父と共に征戦に赴いて勇名をはせたが、漢族宰相劉秉忠の仏教への感化もあって出家、日々、観世音菩薩像を参拝し父に替わってした。そのときの「拝磚」だという。
境内の外れには下塔林と称する広大な墓所が敷設されていて、28座もの亭閣式塔が立っていた。その中の13㍍とひときわ高い密檐式の塔は明代1429年に創建されたもので、元初徳始塔といい、潭柘寺33代住職、終極無初禅師の円寂後に建てられた。この僧侶、実は日本人、しかも私と同郷の長野出身で、中国居住56年と、日本の高僧の中で最長の滞在期間だという。
かと思えば、塔林の脇にあった覆鉢式塔は虎塔といい、この辺りにすみしばしば下山して家畜を襲った虎を寺の瘋魔和尚が感化すると、以後、虎は素食に転じてかゆを食べるようになったのだという。和尚の円寂を終日泣いて悲しみ、5日後に息絶えたその虎を祭ったものだという。
両寺とも境内に残る松の古樹が見ものだ。戒台寺の古樹は樹齢1000年を超えるもので、その枝ぶりから「臥龍松」「九龍松」「抱塔松」などと名付けられている。潭柘寺には沙羅樹や樹齢1400年を超える帝王樹(銀杏)などが視界を覆う。
中国で古樹というのは、樹齢が100年以上の樹木をいい、さらに樹齢300年を超えるものを1級、それ以外を2級とする。北京市海淀区には1級古樹が892株あるという。樹木ごとに1級には赤色の、2級には緑色の金属タグが掛けられ、通し番号・樹種・年代などが記された脇にQRコードがあって、スマートフォンで読み取ると、その樹木の詳細な由来を知ることができる。いまの中国では、古樹は言うに及ばず、樹木の無断伐採は固く禁じられている。公園や路傍の草花や枝木すら、気安く抜いたり折ったりしようとはしない。環境保護意識の本気度がうかがわれる。
1934年に戒台寺と潭柘寺をロバに乗って訪れた作家の朱自清は、戒台寺は「空濶疏朗」で潭柘寺は「衆山屏蔽」と印象の違いを記している。山麓に開かれた戒台寺はゆったりと徘徊するのに良く、山腹に沿って建てられた潭柘寺は深山の霊験あらたかな神気が漂う。
潭柘寺からはバスと地下鉄を乗り継いで、都心までわずか1時間余りの通勤圏内だ。だがせっかくの里山に抱かれた田舎の空気を堪能しようと、民宿に泊まった。潭柘寺門前に構えられた数軒の「農家楽」では、セミ、イナゴなどの昆虫食、地元食材の虹鱒やロバ肉や活き締めの鶏など、野趣に富んだ田舎料理がされる。深更まで蛙の声を聞きながら、民宿の家猫とじゃれていた。
戒台寺の五百羅漢像