文化都市・大連のノスタルジー

2023-12-27 12:53:00

馬場公彦=文写真  

連載は40回をえた。その3年半は新型コロナの感染拡大による日本でのリモート業務の1年間を除けば、ほぼ北京での生活を余儀なくされた。そのために北京の歴史や文化生活に親しむことで、ディープ北京を堪能し、記事の大半を北京の話題で埋めてきた。これからは、連載タイトルの通り仕事と生活の拠点は変わらず北京に置きつつ、週末小旅行で訪れた中国各地の話題も積極的に取り上げていこうと思う。 

今回は前回に続き文化強国を目指す中国の今を伝える動きとして、大連での文化体験を紹介したい。このたび大連市は目下35都市ある日中韓の東アジア文化都市の国内14番目の都市に選定された。それを契機として、全国人民代表大会(全人代)で同プランを提起した全人代代表の劉宏さんが学長を務める大連外国語大学(大外)において、「東アジア文化の相互交流と発展」と題した国際フォーラムが開催され、その基調報告者の一人として招かれた。 

大外といえば、中国で1964年、新中国成立後最初に設けられた日本語専門学科である大連日語専科学校がその前身で、われわれの世代の中国語履修者は、当時ほぼ唯一の日中辞典だった同大編の『新日漢詞典』(1979年、遼寧人民出版社)に親しんだ。同大日本語学部はいまや新入学部生400人余り、教員80人近くを擁する、中国最古で最大の日本語専門の大学教育機関である。関係者の中に、中国帰国者3世として渡日し、日本の大学で学位を取り後進の育成に当たる大学教授に巡り会えたのには深い感動を禁じ得なかった。 

大連市は東北地方の中で日本人の居住者が最も多く、支社を置く日系企業も多く、日本の多くの地方都市と直行便で結ばれている。大連が位置する遼東半島は黄海と渤海を抱え、朝鮮半島や山東半島に近く、北東アジアのハブとして地理的好位置にある。 

歴史的にも日本とのゆかりは深い。1894年10月、「日清戦争」(甲午戦争)において日本軍が同半島南岸中部の荘河花園口から上陸。下関条約(馬関条約)で同半島を占領。その後、三国干渉で清国に還付ののち、98年、帝政ロシアが7年間租借、日露戦争で戦勝した日本がポーツマス条約で再び占領。以後、日本敗戦まで40年にわたり日本の植民地支配が続く。戦後は日本に代わってソ連軍による軍事管制が敷かれ、駐在防衛に転じ撤退する1955年までソ連によって占領。その間、大連旅順は断続的に戦場となり、各所に要塞や砲台が設けられ、塹壕が掘られ、他国の支配を被る歴史をほぼ60年間にわたって経験してきた。 

大連市の中心の中山広場のロータリーには日本時代の役所ホテル銀行などの建築物が欧風建築物に混ざって残り、2万平米近い敷地に建てられた満鉄本社ビルがそのまま瀋陽鉄路局大連事務段ビルとして使われている。日本時代の大連は清岡卓行『アカシアの大連』で知られ、終戦時の邦人人口は20万人、3人に1人が日本人だったという。北海道大学出身者としては、大連と聞くと学生時代に寮歌『都ぞ弥生』とともに高歌放吟した旅順高校の寮歌『北帰行』の「窓は夜露に濡れて、都すでに遠のく、北へ帰る旅人ひとり、涙流れてやまず」の歌詞とメロディーが浮かび、都落ちの零泊した流浪者の哀切な郷愁を誘う。 

『アカシアの大連』に出てくる星ケ浦海岸は今は星海公園と呼ばれ全長6の橋が旅順区に向けて架けられている。南山区はかつての日本人街だったが、建て替えやマンション開発が進み、居抜きで利用されているほかは日本家屋はわずかに残るだけだ。 

旅順の港湾部を外れて海岸線を歩くと、海水浴場や漁港が連なり、海鮮市場ではアナゴエイ海ウナギウニワタリガニナマコなどが売られて海鮮料理店が軒を連ね、丘には高級別荘が建ち並び、漁港の生活感があふれていた。 

馬場公彦プロフィール

1958年生まれ、北海道大学文学部卒業、同大学文学部大学院修士課程修了。早稲田大学大学院博士課程修了、学術博士。出版業界で35年間勤務し、定年退職後、北京大学外国語学院外籍専家を経て北京外国語大学日本語学院北京日本学研究センター准教授。著書『戦後日本人の中国像』(中国語訳あり)『現代日本人の中国像』『播種人―平成時代編輯実録』(中国語)等。

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