ソウルフードを求めて 杭州・武漢・長春
馬場公彦=文・写真
秋は学会シーズン。新型コロナの感染拡大で対面がかなわなかった3年続きの無沙汰を取り戻すかのように、昨年11月は3週連続で出張が続いた。杭州・武漢・長春と、いずれも高速鉄道では北京から4時間ほどのほぼ等距離にある。とはいえ訪問時の日中気温は、それぞれ30度、7度、零下10度。杭州は常緑、武漢は落葉、長春は積雪の風景が広がり、国土の広大さを肌身に感じた。二、三日間の短い滞在時間の中で、会議の合間を縫っては各地の名所旧跡を訪ね、市街の路地を散策し、地元ならではのソウルフードを探訪した。
昨年は北京を中心に京杭大運河をたどり歩いたが、杭州は大運河の南端に当たる。銭塘江の河口を起点に隋代に開削された運河だが、今では両岸に遊歩道が設けられ、江南の水郷を行き交う運搬船を横目に見ながら大運河博物館までジョギングして参観した。夜はナイトクルーズからライトアップされた河畔の税関や商舗や劇場の跡を眺めながら、南宋当時の首都臨安のにぎわいに思いをはせた。
翌日は北西郊外に広がる良渚古城遺跡公園に行き、雑木林とコスモスの花畑を抜けてエノコログサと背丈ほどあるススキの茂る草原のじゅうたんに足を延ばした。良渚古城は今から5000年前の新石器時代後期のもので、人類最初期の都市文明で、広大な稲田が広がっていたそうだ。柱杭跡を踏まえて復元された家屋の柱を眺めていると、青森県の三内丸山遺跡を連想する。三内丸山の年代は良渚に近く、縄文時代の村とされているが、稲作跡は確認されていない。
翌朝は西湖1周10㌔のジョギング。日曜日とあって多くの市民や観光客で湖畔はひしめいていた。波光きらめく湖面と雷峰塔を戴いた山容を愛でながら走った。西湖を模して造営された北京・頤和園の昆明湖と比べると、公園への出入りが自由で、湖面と歩道の高低差が小さい上に柵も設けられておらず、風景との一体感を堪能できる。
「杭幇菜(杭州料理)」はだしの効いたスープが特徴で、ジュンサイスープ、龍井蝦仁(エビの龍井茶炒め)、東坡肉(豚の角煮)など素材本来の味を生かした淡く甘い風味が日本人の口に合う。杭州市民の朝のソウルフードは「片児川」。字面からは料理が想像できないが、炒めた豚肉片・雪菜・タケノコなどが入ったあっさり麵。これと「小籠包」の組み合わせが定番のようだ。
翌週末は武漢へ。武漢は2011年5月、辛亥革命百周年の国際シンポジウムの折に来訪して以来だ。当時は武昌起義を記念して鄂軍都督府跡に建てられた展示館が修復中だったので、じっくりと革命遺跡と革命博物院を参観した。日本人が現地の軍医に講義した中国語の実用解剖学教科書や、日本の鉄道院が中国人に授与した修了証書など、数々の展示物から日本が革命に及ぼした影響の深さを実感した。
湖北省立博物館の展示は、曽侯乙墓からの出土品が圧巻で、漆器・玉器・青銅器や巨大な編鐘の意匠は精巧を極めており、当時の手工業の発達と工匠の技能の高さに舌を巻いた。これらの墓葬品が製作された戦国時代初期は日本では埴輪や銅鐸が製作されていた弥生・古墳時代。良渚文化のときとは打って変わって文明の進展のあまりの落差にがくぜんとする。
長江の渡し船で武昌から漢口へ。その間約20分、料金はわずか1・5元で、晩秋の烈風吹きすさぶ中、武漢長江大橋の壮観と、中国大陸を横断する大動脈の躍動を体感した。
武漢の朝は「熱乾麺」が定番だが、地元の人に勧められて「豆皮」に挑戦した。もち米や豚肉、野菜などを炒めた餡を緑豆で作った皮で巻いたもので、屈強な料理人が巨大な銅鑼のような鉄鍋を回しながら調理する手の込んだ技を飽かずに眺めていた。
大概の「怪味(独特の風味)」にはへこたれないわが鉄の胃袋にも苦手はある。香菜と「小龍蝦(ザリガニ)」だ。ザリガニは幼少の頃、川や池で捕まえては遊んだものだが、エビやカニに対するような食欲はいっこうにそそられない。それ自体に味はないのを、ニンニクやトウガラシなどをふんだんに使って味付けをするのに、食べられる部分はごく少ない。その上殻むきは面倒で、手を傷つけやすい。なのに小龍蝦店は地元の若者でにぎわっているのだから不思議だ。
その翌週末は長春へ。吉林大学は在籍学生数7万4000人を抱えるマンモス大学で、学生数は日本大学をしのぎ、七つのキャンパスの総面積は7・3平方㌔だから、みなとみらいのある横浜市西区とほぼ同じ広さ。1万人収容可能な食堂のほか、ショッピングや食事などの機能がそろったモールも建っていて、商店の商機は十分ある。これならキャンパスの外に出ることなくして学生生活を送ることも可能だ。
長春はかつて「新京」といい、「偽満洲国」の「首都」であった。中心部に当時の主要な8棟の官庁ビルが残されている。「偽満洲国」皇帝溥儀の居宅と官邸を兼ねた「偽満皇宮」とそのかたわらに建つ「東北淪陥史陳列館」を参観した。「淪陥」という用語は単に被占領・植民地化だけでなく、敵に陥落させられ抑圧される屈辱感がにじんでおり、展示を参観する日本人としてはなおさら重たい気分に引きずられた。
長春のみならず東北地方一帯の料理の特徴は、油をふんだんに用いた炒め料理が少なく「炖(煮込み)」料理が多いことにあるようだ。中でも極め付きは「鉄鍋炖」。地元の専門店に連れて行ってもらうと、農家のかまどに巨大な鉄鍋が設えられており、鍋を煮込むための薪が燃え、その熱は小上がりの床下を伝って「炕(オンドル)」の暖気となっている。外は厳寒の雪景色だが、店内の客の男たちはもろ肌脱ぎになって太鼓腹をさすりながら白酒をあおる。調理法はシンプルで大胆。水を差した鍋に鶏か魚(鯉や鯰などの淡水魚)をブツ切りにしたものを入れ、沸騰したら白菜、ジャガイモ、ネギ、春雨などを一挙に放り込み、最後に花巻(花びらの形をした中華風の蒸しパン)や餅(穀粉をこねて作った円盤状の蒸しパン)を具材の上か鉄鍋のふちに沿って並べる。後はふたも空けずあくを除くこともなく、ひたすら約半時間、水気がすっかりなくなり佃煮状態になるのを待ってから一斉に箸でつつくのである。日本の鍋奉行が見たら卒倒しそうな、豪快にして強引な、繊細さの対極にある鍋料理だ。
地元出身の友人に聞くと、幼少期、日常生活で魚肉類が食卓に上ることはめったになく、腹が減ったときは白菜やネギやニンニクを生のまま齧っていたという。「鉄鍋炖」は農家の厨房で湯を沸かしたり、米を炊いたりするかまどと鍋を使って、身近にある野菜や近所の川で捕れた魚など、ありとあらゆる食材をとにかく煮込んで食べたのだろう。大勢の親戚や近所の人が集まって食べるハレの日の料理で、東北農家の生活感が伝わるソウルフードだ。
「炖」については地元出身の学者の興味深い説を聞いた。日本の「おでん」はこの「炖」に接頭辞の「お」が付いたのが由来ではないかというのである。「味噌田楽」の「でん」とばかり思っていたが、おでんの製法を想起すれば一理ありそうだ。中国ではおでんは「関東煮」と称され庶民に親しまれている。最近セブンイレブンでは「好炖(ハオドゥン)」と名を換えて売り出しているそうだ。新説の信憑性が増してきたようだ。