演劇は文化交流の捷径 南通への旅
馬場公彦=文・写真提供
週末旅行の行き先に南通を選んだのはさして深い理由があるわけではない。旅の醍醐味の一つは旅行先よりも目的地に至る過程にある。目的地への交通は単なる移動の手段ではない。飛行機よりも高鉄(高速鉄道)、高鉄よりも在来線がいい私は、北京から長距離列車の寝台車に乗って行ける場所を探していたら、たまたま南通行きの切符しか残席がなかったからだ。
とはいえ、南通駅で降りて旅館までのタクシーに乗り、運転手に南通の特色はと尋ねたら、「何もないよ。ここは江蘇省でびりっけつの都市だからな」と言われたときは、ささやかな予定のほかは、目当てなしのぶらり旅を試みたようなものなので、さすがに焦った。南通は「実業興国、教育救国」を提唱し近代の殖産興業に多大な功績のあった張謇(1853~1926年)の故郷であり、かねてから「近代日本資本主義の父」と称され関心を持っていた渋沢栄一(1840~1931年)と比較してみたいと思っていた。その張謇の記念館を訪れるのが唯一の目的であった。
氷雨降りしきる中、ひっそり閑とした平日の記念館を訪れた。張謇は状元(科挙の殿試の首席合格者)の栄誉に浴しただけあって、書道は達筆で伝統学芸に秀でた読書人だ。甲午戦争(日清戦争)後は実業に転じて郷里の南通に紡績工場団地を設立し、郵船、電力通信、製造業など100以上の企業を興し、近代民族工業の勃興に貢献した。後期は教育事業に重点を移し、400余りの学校を開学し近代教育・公益事業の発展に尽くした。役人から実業に転じた後、教育を中心に社会事業に専心するというその事績は、渋沢とよく似ている。
張謇の豊富な教育事業の中でも「特殊教育」と題された展示パネルにくぎ付けになった。盲唖学校や女子養蚕講習所と並んで「伶工学社」という中国最初の近代的演劇学校を設立した際、教務主任として招喚した欧陽予倩という名前に目が留まったからだ。赴任先の北京外国語大学で欧陽予倩と田漢の日中演劇文化交流に関する写真展の開催が迫っていた。初日のシンポジウムの登壇者に指名された私は、ちょうど話のネタを探しあぐねていたのである。
南通のツーリストセンター備付の観光地図を見ると、伶工学社はまだ残っている。早速車を走らせ到着したのは夕刻のすでに閉館後だった。北京から出向き、欧陽予倩に関する資料収集をしていると名乗ると、展示室の明かりをつけてくれた。1919年に開学した伶工学社は張謇の没した26年に閉校。十三、四歳の学童を対象に無償で京劇・昆曲の伝統劇を近代的なカリキュラムと教授法で教育していた。欧陽予倩は京劇・昆曲の伝統劇と近代演劇に通じ、新中国成立後も中国演劇界の指導的役割を果たした。
張謇は伶工学社開学と同年に南通に近代的な最初の劇場として「更俗劇場」も建設した。翌年、張謇はそこに北京から梅蘭芳を招き、欧陽予倩と同じ舞台で異なる演目を演じるという京劇の北派南派の合同公演を実現させた。当時はまだ識字率が低い中で社会改良の捷径(近道)は良質の演劇普及にあるとした張謇の卓見と合わせて、彼の人望と胆力のほどがうかがえる。
突然の時間外の来訪にガイドを務めてくださった物腰が柔らかな女性によると、建物は2013年に建て直されたもので、ご本人が南通市の政治協商会議で復旧事業を提案した。なんと京劇名優で梅蘭芳の息子・梅葆玖の弟子だという。韋紅玉さんというその方は梅派の俳優として活躍し中国戯曲学院で学んだ後、北京で慰留する師匠を振り切るように故郷の南通に帰った。そこで演劇を中心とする文化事業に携わり、伶工学社を拠点に全国から招いた劇団による公演や演劇ファンサービスの集いを企画実行し、伶工学社を生ける演劇博物館とする活動を続けてこられた。私のガイドを担ったその翌週に、定年退職の日を迎えることになっていた。
シンポジウムの当日、韋さんに続く奇縁に恵まれた。登壇者のお一人に欧陽予倩の一人娘と田漢の長男の間に生まれた欧陽維さんがいらしたのだ。田漢は中国現代演劇(話劇)の基礎を築き、新中国成立後は欧陽予倩と並んで演劇界の重鎮となったほか、国歌『義勇軍行進曲』の作詞家としても知られる。二人とも湖南省の出身だが、欧陽は名門の家柄、田の家は貧農で、欧陽維さんによると、性格は片や篤実温厚、片や直情径行、戯曲の作風も違い、論争も絶えなかったが、芸術事業への熱意と方向性は一致していて生涯友情を貫いたという。
このほか欧陽予倩と田漢に共通するのは、戦前・戦後を通した日本の文化界との深いつながりだ。欧陽予倩は1906年に留学し、「送別」の作詞家で知られる李叔同と共に当時の坪内逍遥や小山内薫らの新劇の影響を受け、春柳社を設立し、在日中に『椿姫』『アンクルトムの小屋』『不如帰』などを上演した。田漢は16年に日本に留学して佐藤春夫、秋田雨雀、武者小路実篤、村松梢風らの作家と交流し、中国現代劇の改革を推進した。
抗日戦争(日中戦争)という両国関係史上最悪の時期を経て、日本が敗戦し両国が断交状態に入った。そこで50年代半ばから、「民間外交」の目的で民間の貿易関係や訪問団による人的交流が再開した。とりわけ演劇界での交流は活発で、例えば魯迅の『阿Q正伝』は、田漢の脚色、土方与志の演出で、53年9月、大阪産経会館で公演され、48年に発足した松山樹子バレエ団(清水正夫代表)は55年2月に日比谷公会堂で『白毛女』を初演した。
ほかにも伝統劇においては同年9月の市川猿之助の歌舞伎代表団の訪中、56年8月、梅蘭芳と欧陽予倩率いる京劇代表団の訪日公演、新劇においては52年10月に前進座代表の中村翫右衛門を団長とするアジア太平洋地域平和会議日本代表団訪中、俳優座の岸輝子の同行。俳優座代表の千田是也は同年11月訪中、2カ月余り滞在し演劇人と交流した。
56年3月に日本で日中文化交流協会(初代理事は中島健蔵)が結成されてからは各文化団体の相互交流はより大規模かつ組織的かつ定期的となり、演劇界だけでなく、文学界・映画界・美術界・出版業界・書道界・スポーツ界と裾野が広がっていった。
58年3月、松山バレエ団一行46人が訪中し、『白毛女』などを各地で公演した。72年7月、中日友好協会会長の孫平化は上海バレエ団を率いて訪日し、周総理の指示で田中首相や大平外相と面会し、2カ月後の田中・大平訪中と日中国交正常化のきっかけの一つとなった。
日中文化交流は、日中間の深い文化的紐帯の基礎の上に各界の専門家が作品の創造や公演を通して研さんを深め、人文精神を緊密で強固なものにし、友好を促進する上で大きな役割を果たした。とりわけ欧陽予倩・田漢・梅蘭芳らがけん引した中国演劇界は、日本人同業者たちとの生身の人間同士の交遊によって、相互の芸術活動を豊富多彩なものとした。
演劇は両国関係が困難な時期にあっても友情の大切さを再認識する上で効果的な芸術ジャンルだ。社会改良の捷径は演劇にありとした張謇の言を借りれば、異文化交流の捷径もまた演劇にあると言えよう。
馬場公彦
1958年生まれ、北海道大学文学部卒業、同大学文学部大学院修士課程修了。早稲田大学大学院博士課程修了、学術博士。出版業界で35年間勤務し、定年退職後、北京大学外国語学院外籍専家を経て北京外国語大学日本語学院・北京日本学研究センター准教授。著書『戦後日本人の中国像』(中国語訳あり)『現代日本人の中国像』『播種人―平成時代編輯実録』(中国語)等。