福建省の茶畑村へ
馬場公彦=文・写真提供
北京に赴任してから4年が経った。コロナが明けてからの1年半、各地を旅行できるようになった。とはいえ都市部ばかりで、農村といえば北京郊外の郷鎮に登山や寺社参詣の折に日帰りで立ち寄ったにすぎない。
中国の国土のうち都市部の面積は2%にすぎず、人口の36%は農村人口だ。かねてから農村での暮らしを体験してみたかったところ、5月のゴールデンウイークが過ぎた頃、願いがかなった。茶文化研究で知られる友人の楊多傑さんが、福建省福鼎市の茶農家を訪れ、毎年茶畑ごと買い付けている茶葉の作付けや茶葉の具合を確かめ、茶業発展の実情視察に行くという。そこに同行させていただくことになったのだ。
福建省は青茶・紅茶・緑茶・白茶・花茶を産する全国最大の茶の生産地、日本でも武夷岩茶や安渓鉄観音などの名産地で知られる。中でも福鼎は白茶の産地で、十数年前までは白茶は無名であったが、いまや高価なものだと500㌘で3000元(約6万円)以上する高級品。日本でも銀針茶の名で知られるようになった。
浙江省の温州南駅からローカル鉄道で福建省に入ると、海にせり出す山々をうがったトンネルを潜り、福鼎に着いた。福鼎は行政単位は市だが、寧徳市の下に属する県級の都市。白茶栽培の他、前岐鎮に2021年開業したEV車用電池の巨大生産工場での新エネルギー産業、沙埕鎮の天然漁場を生かした水産業、山間部でのプラム・桃・ユズなどの果樹園栽培、花崗岩の巨岩奇石が畳々と連なる太姥山や海浜リゾートの景勝地に恵まれた観光業などが盛んで65万人の人口を抱える。
市内を桐山渓が貫き、河川沿いの遊歩道は市民憩いの散策路。商店街は朝8時に開店してから夜零時まで営業し、日没となるとひしめく屋台に明かりがともって夜食目当ての地元市民を吸い込む。日本の地方都市にありがちなシャッター街の光景は見当たらず、一間だけの小さな各種商店や活気に満ちた生鮮市場が軒を連ね、半径500㍍ほどのエリアで何でもそろいそうだ。美食街では何軒もの海鮮料理店が軒を連ね、店先に並んだ活きのいい海産物が食欲をそそり、客を呼び込む。生産者―流通業者―販売者―消費者の距離が近いことを実感する。ネット販売やケータリングサービスの必要性を感じない。
福鼎のみならず福建省は寺院や道観が多く、民間信仰が盛んなところで、太姥娘娘や媽祖など神も信者も女性が主役だ。子どもたちを枝分かれした巨樹の形に組まれた巨大な鉄製の山車に載せて街頭を練り歩く「鉄枝」という民間芸能が伝承され、全国第2次無形文化財に登録された。ここには日本の地方都市に見られるような過疎化や高齢化の波は及んでいない。
沙埕の港はかつて孫文が全国十大港の一つと絶賛したほど巨大な規模で、多くの漁船が停泊していたが、内海は5月から9月まで全面禁漁で木造小型船はとも綱を岸壁に縛り付けられ、出漁を許されるのは大型の外洋船だけ。沿岸の漁師たちは内海でカキを養殖して生計を立てているようだ。変わった海鮮料理といえば内湾と外洋の境目に生息する海ムカデを煮たもので、客人歓迎に供されるごちそうだ。朝のソウルフードはビーフンのほか「鍋辺糊」があり、ブイヤベースに練り状の小麦粉を溶かし煮込んだかゆ状スープ。油条(中華風揚げパン)を浸して食べる。
白茶の里を訪ねて福鼎市街を南下し、点頭鎮から汪家洋村に入った。陽光が降り注ぎ、海風が避けられ、通気性の良い砂礫土壌の海抜500~800㍍ほどの山の斜面が茶の栽培に適している。「福鼎大毫茶発源地」と刻まれた碑石の立つ広場から山道を登ると、光緒年間に発見され「華茶2号」と命名された大毫茶の母樹が葉を茂らせていた。
この母樹を守っているのが村の元党支部書記で、茶畑と茶葉加工場を営む紀孔玉さん。紀さんによると、摘んだ茶葉(茶青)は太陽光に晒して乾燥させた後、さらに加工場で数時間木炭を燃やした熱で燻蒸して出荷するという。大毫茶の茶葉を嗅いでみると、畳イグサの香りがし、さらに高級な大白茶を嗅いでみると、チョコレートの香りが漂った。大白が大毫よりさらに10倍ほど高価なのは1日当たりに摘める茶葉の量が大毫の10分の1という、茶農の労賃によるものだ。
翌日は福鼎市前岐鎮から周山村に入った。ここは楊多傑さんに茶葉を提供している茶農家の後継者・周義科さんの故郷。さらに天湖山に入ると、全山が白茶畑という壮大なパノラマが視界に広がり、雲海を眼下に収める。ここの茶葉は「貢眉」という種類で、1960年代に土壌改良した上で茶畑として開墾され、郷村振興に寄与している。
周山村はその名の通り、1000人余りの村民のほとんどが周姓。北宋から南宋への戦乱を逃れて河南省の汝南郡からここに移住した一族の末裔であることが、周氏宗祠の中に架けられた乾隆帝が賜った詔に書かれている。科挙の進士を多く輩出したことがこの村の誇りで、一族で進学支援基金会を組織し、大学のランクに応じた額の奨学金を一族出身の子弟たちに支給する事業を継続している。
福鼎のこれら白茶の茶園で摘まれた茶青の取引所が点頭鎮にある「中国白茶核心産区茶青交易市場」。昨年3月の拡張工事を終えて渋谷の東急ハンズほどの広さの敷地に、400社ほどの茶葉加工場と1000軒ほどの茶商が茶農家の持ち込む茶青を斤(500㌘)当たりの競りで取引をし、毎日2万人ほどが交易に従事している。
この交易所での茶農家1日当たりの収入が3000元ほどで、茶葉の収穫は春季の2カ月間ほどだから、年収はある程度安定確保できる。周さんの実家は5階建集合住宅の一間5階分が全て持ち家で、暮らし向きは良好だ。
ここ福鼎市は漢族のほかショオ(畲)族が多く住むところで、周さんと共に案内役を務めてくださった雷雪平さんはショオ族、福州市羅源県の人民代表大会の代表を務めている。祭りになると男女が歌を歌って互いの恋情を伝え合う山歌の伝統がここでは残っているという。
鎮から村への道は全て舗装されている。茶葉の運搬に支障はなく、生活距離は短い。雷さんによると、道路の舗装・修繕は村民の発意による地方政府への陳情に基づき、村民の自主的寄付と政府の補助金により賄われ、小学校などの公共施設は地元出身の篤志家の拠金による場合が多いという。寺廟の寄進と同様の村民自治の発想が見られる。政府も地方行政においては交通や教育など基礎的インフラの充実を通した住民の福利民生を何よりも重視する。
今回の旅は楊さん一家に同行して、取引先の茶畑のある村で、村民と同じ目線で過ごすことができた。それは私が楊さん一家と懇意にしている友人で、内輪のなじみ(自己人という)と認められたからだ。中国社会を動かす関係原理の磁場を実感した旅であった。
馬場公彦
1958年生まれ、北海道大学文学部卒業、同大学文学部大学院修士課程修了。早稲田大学大学院博士課程修了、学術博士。出版業界で35年間勤務し、定年退職後、北京大学外国語学院外籍専家を経て北京外国語大学日本語学院・北京日本学研究センター准教授。著書『戦後日本人の中国像』(中国語訳あり)『現代日本人の中国像』『播種人―平成時代編輯実録』(中国語)等。