『人民中国』日本語版の由来
劉徳有=文
遼寧賓館(東北人民政府交際処)に、突然姿を現した面識のない二人の訪問客は北京から来た人たちで、一人は康大川といい、もう一人は陳譜氏だった。
康大川氏の話によると、氏は中国政府国際新聞局の人事科長だったが、今は国際新聞局の改組によって新設された中国外文出版社の幹部で、創刊を企画中の日本向け月刊誌『人民中国』(日本語版)を立ち上げる準備に取り組んでいるとのことだった。同行の陳氏は外文出版社の人事科長と紹介された。
「外国向けの広報誌として、『人民中国』にはすでに英語版とロシア語版がありますが、目下、情勢の変化に応じて、中央政府は日本語版も発刊することを決めました。創刊には、日本語の分かる人が必要です。今回東北地方に来たのも、日本語の堪能な人を探すためです」
ここで、康大川氏についてひとこと。康氏は台湾省生まれ。後で聞いた話だが、戦前、早稲田の商科を出た人で、抗日戦の国共合作時代、重慶の「国民政府」で、郭沫若氏の率いる「政治部第三庁(後の文化工作委員会)」に籍を置き、「敵情研究・広報」の仕事と、日本軍捕虜対策と教育に従事。日本の敗戦後、中国人民解放軍が揚子江を渡河して中国の大部分の地域を解放したとき、皖南(安徽省南部)遊撃隊にいた康氏は揚子江沿岸に移動し、そこで西南地区解放のための幹部養成学校を作る準備をしていた。そこへ、中国共産党中央組織部からの電報が来て北京に呼び出され、当時の「新聞総署国際新聞局」に配属された。その頃の「国際新聞局」には、雑誌といえば、これまで香港で刊行されていた『中國ダイジェスト』を引き継いだ英語版の『人民中国(People’s China)』(半月刊、後にロシア語版刊行)しかなく、康氏は日本関係の仕事をするため北京へ呼び出されたのに、人手もなく仕事もなかった。
そんなある日、康氏は突然思いついたことがあった。「戦後、日本の人たちは、新しく生まれた中国の実情を知りたがっているに違いない。半月刊の英語版とロシア語版『人民中国』の中国語原稿からそれぞれ使えそうなものを選んで翻訳し編集すれば、れっきとした日本語版の月刊『人民中国』になるのではないか?」。そう考えて、早速社長の師哲氏(毛主席のロシア語通訳)に報告書を提出すると、社長も賛成してくれ、上役の胡喬木氏(毛主席の秘書)の指示を仰いだところ、郭沫若氏と周恩来総理からも了承が得られた。
しかし、いざ雑誌を出すとなると、翻訳者や校正を担当する人などスタッフを整える必要があった。かつて瀋陽で日本人居留民や『民主新聞』の世話をしたことのある趙安博氏が、康氏に耳寄りな話を持ってきた。「間もなく『民主新聞』が停刊になるので、そこの関係者を北京に呼んだら?」。まさに「渡りに船」。康氏は喜び勇んで瀋陽に乗り込んできたのであった。
康氏は初対面の私に、話を続けた。「現在の極東情勢に鑑み、東北各地に居住している日本人は、間もなく政府の統一調整で、全員中国の他の地域に移りますので、瀋陽にある『民主新聞』も停刊になることが決まりました」
「『民主新聞』社にはその道のベテランが多くいます。すでにスタッフの転勤について話をまとめました。今大連から二人ほど日本語の分かる人が臨時に交際処に来ていると聞き、井上社長が君のことを推薦してくれました。君は今大連の日僑学校に勤めているそうですが、大連の日僑も中国各地に移るので、日僑学校も閉鎖になるでしょう……どう?北京に来て仕事してみませんか?」
北京に行くことができるとは、何と幸せだろう。夢にも思っていなかったことが、もしかしたら現実になるかもしれないと思うと、心臓の鼓動が聞こえるような気さえした。絶対にこの得難いチャンスを逃すまいと、私は迷うことなく「行きたいです!」と即座に返答したが、なにか足りないような感じがして、「国の決定に従います」と付け加えた。
「君、結婚していますか?」
「まだです」
「婚約者がいますか?」
「いません」
「そうですか。それじゃ、これから陳譜さんと一緒に大連に行って、人事異動の手続きをしてきます。また瀋陽に戻りますから、そのときにまた会いましょう」と、康氏は言って別れた。
実は、数日前、接待班の英語組の朱陳さんと暇を見つけて町を散歩し、偶然に見つけた外文書店に入った。ショーケースに英語版の『人民中国』が並べてあるのを見て、朱さんは、この雑誌は北京で出版されたもので、とても面白く、自分もその出版社に行って仕事をしたいと、憧れるように言った。朱さんの話を聞いて初めて、中国に外国向けの広報誌『人民中国』があることを知った。そのわずか数日後に、外文出版社の人が来て、自分が日本語版『人民中国』編集部に勤務することとなったのである。何とも言えない不思議な巡り合わせだった。
康氏が帰った後、私は直ちに大連にいる両親に手紙を書いた。転勤の話を伝え、両親の意見を待った。今まで親もとを長期間離れたことがなかったため、両親がどう受け止めるか心配だった。しかし、本音は、親の意見を聞くより、むしろ自分の意見を表明したかった。手紙には、「『女は色気を持つべし、男は世を渡るべし』と俗に言われています。世渡りの経験をさせてください」と書いた。数日後、両親から、全力支持するとの家書が届いた。
これで、私には、後顧の憂いはなくなった。
正直言って、瀋陽にいる間、もう一つの心配があった。それは、大連に戻れないことだった。東北人民政府交際処にはもともと、この機会を利用して外国語の分かる要員を確保しておきたいという「下心」があった。この点について、接待班の通訳者の間ではもっぱらの噂になっていた。当時の私は、このまま瀋陽に残されるのではと、ビクビクしながら毎日を過ごし、たとえ北京行きが駄目になっても、絶対に瀋陽に残らず、大連に帰ると決めていた。しかし、今度の話で北京行きが決まり、ホッとした。
数日後、康大川氏の言った通り、「すぐ東北旅社に来てください」という電話を受けた。
1955年に筆者(右)は康大川氏と共に訪日。東京のホテルテート屋上で記念写真を撮った(写真提供・人民中国)