わが人生に悔いなし——菅沼不二男(上)
劉徳有=文
菅沼不二男氏(写真・劉徳有氏提供)
創刊当時、外文出版社のビルは、城壁がまだ残っていた北京宣武門近くにある新華通信社の広い敷地内にあった。
初めて出版社のビルに入り、案内されたのは60平方㍍余りある大部屋で、日当たりの良い南側の窓際にずんぐりした体つきの老眼鏡をかけた40過ぎくらいの男性が座っていた。その男性は長旅の汽車から降りたばかりの私たちの姿を見ると、急いで立ち上がり、固い握手を交わし、「大連からようこそ。僕も先月瀋陽から赴任してきたばかりです」と言って歓迎してくれた。
この中年の男こそ、後に『人民中国』でずっとお世話になったリライト専門家・菅沼不二男氏だった。氏はもともとベテラン記者で、国際問題に通じていて、報道に対する敏感さを持ち、報道業務に手慣れていた。
後から聞いた話では、氏は東京帝国大学法学部卒で、大学に入ったのは1929年、世界が大恐慌に陥った時だ。卒業後、同盟通信社の政治部で仕事をし、37年7月、日本当局者の手で「新京」に改名された中国東北地方の長春に派遣され、39年、ノモンハン事件勃発後に、上海に設けられた同盟通信の華中総局に赴任。局長は、氏を編集局の「情報部長」に任命するつもりでいたが、断った。「情報部長」の仕事は主に、大量の外電を読んで選び抜き、それを総局長の参考に供することであった。その頃、日本は外電を秘密電報として処理していたので、魅力的な仕事だったが、菅沼氏には氏の考えがあった——この戦争は本来してはならない戦争だ。日本はすでに泥沼に陥っており、いつかは米英を敵とするだろう。そうなれば形勢はますます日本にとって不利になる。敗戦は時間の問題だと思っていただけに、「せめて戦争中、責任ある地位にだけは就くまい」と決意し一介のヒラの記者で通した。
「情報部長」を断ったために、44年の春、突然召集令状を受け取り、一等兵として「東部国境地帯」の虎林の部隊に編入され、牡丹江へ配置されることになった。しかし、菅沼氏は英語に通じ、外電を読み解き分析する特技があったので、関東軍司令部第二課に配属され、45年8月の日本降伏まで勤務した。
終戦後、菅沼氏は元の職場である同盟通信の支社に戻ったが、ソ連軍に接収され、日本軍の軍服を脱ぎ捨てて平服に着替えた。このとき、「なんともいえぬ解放感」とともに、灼熱の太陽が「まぶしく、並木の緑が目に沁みるようだった」と述懐している。
当時、長春は異常な混乱に陥っていた。街は日本人「難民」でいっぱいだった。菅沼氏は素早く「日本人民会」のメンバーとして「難民」救済に従事し、一方でソ連軍の黙認の下、共同通信のニュースを受信し、それを編集して日本人たちが読めるようにした。46年4月、当時習慣的に「八路軍」と呼ばれていた東北民主聯軍が長春に入ってから、菅沼氏たちは事前の準備に基づいて「日本人民主連盟」を設立し、日本語の新聞『民主新聞』を発行、祖国の情報に飢えていた日本人居留民たちに大歓迎された。
ところが、わずか1カ月後、東北民主聯軍は突然長春から撤退。とどまるべきか、それとも八路軍に付いて撤退すべきか、岐路に立たされたが、内心の葛藤の末、北へ向かうことを決め、真夜中に駅に駆け付け、弾薬を満載した貨車の屋根によじ登った。途中で国民党軍の追撃と空襲をくぐり抜けながら、松花江のほとりの佳木斯に着いた。なぜ八路軍に付いて北へ向かったのか?
理由は二つあった。一つは39年に上海で手に入れて読んだ毛沢東の『持久戦を論ず』から影響を受けていたことが大きかった、と菅沼氏。「この本は、当時上海にあった『中国通信社』が日本語に翻訳してタイプ印刷にし、一般に販売されていたものであった。1938年5月26日から6月3日にかけて、毛沢東が延安の抗日戦争研究会でおこなった講演を本にしたもので、私はその翌年にすでに日本語訳を読むことができたのだった。流石は上海である。私は目をふさいでいるウロコが落ちたような気がした」「そのころ日本では、中国と全面戦争をはじめてはみたものの、いつの間にか『泥沼に足をつっこんだようだ』と言われだしていたし、国際情勢についても、独ソ不可侵条約がむすばれると、『複雑怪奇』という一言をのこして内閣を投げ出した首相がいたほどだった。ところがこの本には、『中国必亡論』も誤っているし、『中国速勝論』も間違っている、この戦争は持久戦であると断定し、戦局の推移を、日本軍が大挙侵攻してくる段階、日本軍の侵攻に限度があることからくる対峙の段階、中国側の戦略的反攻の段階と三つに分け、それぞれの段階における戦法から政治上の諸問題、国際情勢の推移まで詳細に分析しており、その後の情勢の発展は完全にこの本の書いてある通りにすすんだ。当時中共軍は日本軍とはわずか10カ月戦ったにすぎない。あの延安の山奥にいて、どうしてこんなに正確に物事を見通せるのだろうか?記者として、これに驚かずして一体何に驚くべきか?今後も日本国民は、こういう正しい見通しのできる指導者を持つ中国の民衆とお隣り同士で暮らしてゆかなければならないのだ。よし、この機会に中国共産党の指導する地区に入って、どうしたらこんなに正確に見通しができるのか、奥地の民衆は自分たちの政府をいったいどう考えているのか?この一点を極めてみよう!」
もう一つの理由は、八路軍の規律の厳正さをその目で見たことだった。
その頃、長春には「妙心寺」という寺があり、日本人の住職がいた。民主聯軍が入城した後、兵士の一団が「庭」を借りて一夜を過ごすと聞いて、和尚は「共産軍」が来たぞと思い、急いで「どうぞ室内のオンドルで休んでください」と勧めたが、どうしても入ろうとせず、寺の庭で眠った。4月下旬の長春といえば、夜間はかなり冷え込む。和尚はなおも「オンドルで」と勧めたが、兵士たちは土間にごろ寝し続けた。そればかりか、兵士たちは毎日寺のために天秤棒で水を運び、庭を掃除した。寺を離れるときには、周りをきれいに片付け、和尚に心からの謝意を述べた。年老いた和尚は感動して「ああ、これこそ天晴れもののふじゃ!」と言った。
この二つの理由で、菅沼氏は決意をし、リュックサックに本を詰め込み、着の身着のままで、真夜中に奥地行きの汽車に飛び乗ったのだった。(次号に続く)