わが人生に悔いなし——菅沼不二男(下)
劉徳有=文
その後、菅沼氏は佳木斯とハルビンを転々としたが、1948年11月瀋陽が解放され、そこに移住することになった。長春を撤退して北へ向かったときには、少なくとも5、6年は必要だろうと思っていたのだが、わずか3年で南下が実現するとは思ってもみなかった。東北全域が解放された後、各地に分散していた日本人が続々と瀋陽に集まってきた。ハルビンにあった『民主新聞』は瀋陽に移り、その中に菅沼夫妻もいた。
前にも触れたが、52年、東北地方にいた日本人が分散して内陸に移動したため、瀋陽の『民主新聞』が停刊することになり、菅沼氏は同年『人民中国』日本語版の創刊に合わせて、北京へ転勤。氏は、自分が引き続き北京で、日本人向けの雑誌の編集出版に従事できるのをこの上ない幸せと思った。
菅沼氏は、通信社の仕事が長かったため、論文や時事性の強い硬派の文章の添削にたけていた。仕事で培われた習慣なのか、原稿を手直しするときはニュース性とスピードに特に力を入れ、『政治報告』のような大論文の翻訳は、毎回菅沼氏の手を経ていたが、その都度素晴らしい出来栄えで職務をやり遂げていた。
これまでにいろいろと書いてきたが、編集部の準備が全て整った段階で、53年の6月5日に、日本語版の『人民中国』が誕生した。
『人民中国』は最初の数年、ほとんど毎号に政治的主張や時事的な文章があり、また時々長文の『政治報告』を付録として添付していたので、翻訳原稿のほとんどの添削は菅沼氏の担当だった。筆者のような中国人スタッフの訳文の質は推して知るべしだが、中文原稿と照らし合わせて細かく手を入れてくれた。『人民中国』翻訳作業の手順としては、日本人リライト専門家が直した後、中国人スタッフと突き合わせをしなければならず、問題に気付いたときには専門家と検討することになっていた。ある期間、筆者はその突き合わせの仕事を担当していたので、菅沼氏との接触も多かった。この仕事は実際のところ、日本語を学ぶ絶好のチャンスだった。
菅沼氏は英語はもちろんのこと、漢文にも強かった。氏は大分県の生まれ、回想によると、中国との初めての「接触」は小学校4年生のときで、田舎の私塾で桜山という老教師に『孝経』と『論語』を、分かったようで分からないような状態で教わった。中学に上がってからは漢学者の赤松文二郎先生から『前赤壁賦』『後赤壁賦』『出師表』『岳陽楼記』や唐詩などを学んだ。この頃になって漢文を勉強するのがとても面白く感じられるようになったという。筆者と一緒に仕事をしていたとき、幼い頃に学んだ古文をしっかり覚えていて、今でも3分の2は暗唱できると述懐していた。
仕事が忙しいときなど、菅沼氏は残業のため事務室の床板に寝ることもあった。54年、『中華人民共和国憲法』が発布されたとき、日本語訳を『人民中国』の付録とすることとなった。氏は昼間は中国人スタッフと共に訳文の検討に加わり、どしどし意見を出したばかりでなく、夜は残業して修正・添削をしなければならなかった。ちょうど暑い盛りだったので、氏は宿舎に帰るのをやめ、一人で机のそばの床板にござを敷き、真夜中まで汗びっしょりになって仕事をし、疲れたら、服のまま横になった。翌朝、皆が出勤してこの情景を目にし誰もが感動した。
50年代の初めといえば、新中国が生まれたばかりの頃で、リライト専門家たちの住宅事情と勤務条件は、お世辞にも良いとは言えなかった。菅沼夫妻は北京の東部・南池子にある外文出版社の宿舎があてがわれたが、黒れんがの平屋で、内装はひどく無造作なものだった。職場への往復は車での送迎などもちろんないので、夫妻は毎日路面電車で南池子から終点の宣武門まで行き、さらに歩かねばならなかった。ちょっと朝寝坊した日には、遅刻をしてはいけないと朝食も取らずに、家を飛び出し、途中で焼餅(小麦粉のお焼き)を買って、ほおばりながら小走りで出勤した。
解放後初期の北京の路面電車(人民中国)
菅沼氏は61年8月、25年間の中国生活に別れを告げ、天津から帰国の船に乗り込んだ。北京で生まれた、日本語が話せない息子に、日本の文化、伝統や歴史を学ばせ、日本の現実に触れさせたかった。帰国後、菅沼氏は新日本通商株式会社の会長を担当し、その後、日中旅行社を設立して、83年6月25日に亡くなるまでずっと同社の社長を務めた。「商売人」になったが、それも日中友好の発展のためだった。自分でも「私は金儲けには興味がないし、その能力もありません」と言っていた。菅沼氏は『人民中国』編集部の仕事から離れたとはいえ、依然として雑誌に関心を寄せていた。
菅沼氏が帰国してからの話だが、氏が日本貿易界のメンバーと北京を訪問したとき、人民大会堂で周総理と会見した。通訳を仰せつかった筆者は、「生産有了増長」という箇所を「生産が増長する」とそのまま訳してしまった。ずっと自分の間違いに気付かないでいたのだが、菅沼氏は日本に戻ってから筆者に葉書をくれて、「増長」は日本語では「傲慢」の意味になるので、あの訳は適当でない、「生産が高まる」か「生産が増える」と訳すべきだ、と誠意をもって指導してくれた。葉書を手に筆者は感激した。菅沼氏は『人民中国』で机を並べていたときは筆者の良き師だったが、帰国されてからもやはり筆者の素晴らしい先生だと、心中でつぶやいていた。
菅沼氏は中国革命に身を投じたのち、中国人と同じように、情勢の変化にしっかりと応え、理解しようと努力した。可能な限りチャンスをつかみ、中国の経験を学ぼうとしたが、時には理解できずに悩むこともあった。しかし、新中国の前途には自信と希望を持ち、中日両国が必ず友好的に付き合っていけると信じていた。
菅沼氏は、「中国屋」を自任していた。ある文章の中で氏はこう書いている。「長江は西から東に向かって滔々と流れていることには違いないのだが、中には激流岩を噛む急流もあれば、東から西に逆流している所もある」「いまや、『中国丸』は三峡の険を過ぎたのである。岸との間には、むろん、局部的な摩擦、逆流は絶無とは言えぬかも知れぬが、これからは、滔々たる長江の流れのごとく、非常なスピードで前進してゆくに違いないと信じるのである」「私の人生は、働きざかりのその大半を中国で記者、編集者として過ごした。紛うかたなき中国屋であり、わが人生には悔いはない」