「仕事が一番の楽しみ」——池田亮一(下)

2023-08-24 17:29:00

劉徳有=文

1963年1月号から連載が始まった『人民中国』の「古美術」コーナーの提案者・池田亮一氏は趣味が多岐にわたり、骨董品、中でも陶磁器の収集もその一つで、暇さえあれば、関係図書をめくっていた。『中国美術大系』などの分厚い専門書がいつもそばに置かれており、日曜日に瑠璃廠の骨董品店をぶらつくのが大きな楽しみだった。たまに掘り出し物があると、うれしそうに同僚たちを招いて、鑑賞させていた。筆者は氏の書斎に並べてあるたくさんの陶磁器を見たことがあるが、泥だらけのれんがや瓦のかけらもあったし、新しく出土した人形のレプリカもあった。夫人と景徳鎮に旅行し、古いかまどを見学した際、磁器のかけらをいくつか拾ったことがあった。北京に戻ってから、の色がそれぞれ違うかけらを指さしながら喜色満面、今度の旅行の「収穫」を大いに語ったものだ。 

氏のもう一つの趣味は囲碁だった。実力はアマチュアの初段だそうで、日本の雑誌や新聞に載っている棋譜を研究するのが好きだった。63年、池田氏は『世界知識』誌の依頼で、中日囲碁交流を歴史的に詳しくつづった『囲碁漫筆』を著した。書き終えてから、氏は石の打ち方も知らない筆者に、中国語に訳すよう依頼してきた。全文を訳し終えると、筆者を自宅に呼んで訳文を細かく検討した。一字一句丁寧に推敲を重ねる姿から、囲碁に対する愛情と仕事に対する責任感が十分うかがえた。 

池田氏は囲碁を通じて中国で何人かの友人ができ、一番誇りにしていたのは、囲碁愛好家の陳毅副総理と何度も対局したことだ。631027日の日曜日、西園寺公一氏が池田氏に、陳毅副総理が今日拙宅にお見えになり、宮本直毅(九段)、桑原宗久(七段)両棋士と対局されますが、あなたもご一緒にどうぞと誘った。その日朝早くから、池田氏は夫人と共に西園寺家に赴き、陳毅副総理と対局した。副総理が公務のため中座した後、池田氏は引き続き桑原七段と一局行った。夕食後、西園寺氏の長男に囲碁を教え、8時過ぎに別れを告げるとき、「今日は実に愉快でした」と満足げだった。西園寺氏が「さらに自信がついたことでしょう」と言うと、うれしそうに「ええ、2回勝ちましたからね」と答えた。 

周恩来総理(右端)と池田亮一夫妻(右から2人目、左端)との懇談の様子(『人民中国』創刊10周年祝賀パーティーにて、写真提供・人民中国)

池田氏は本名を三村亮一といい、1906年岡山県生まれ。京都帝国大学経済学部を卒業し、戦前の早い時期からコミュニストとして活躍し、『赤旗』の編集長を務めたこともある。32年の「熱海事件」で逮捕され、入獄。出獄後も、当局の監視下に置かれ、やがて、当時日本人が「満州」と呼んでいた中国東北地方に「流され」、甘粕某の主宰する「国策事業」――「満州映画協会」に勤めたが、日本の降伏後、「満映」が中国共産党に接収され、中国共産党の手で最初に作られた映画製作所「東北電影製片廠」が46年5月長春から東北辺境にある解放区――炭鉱の町・鶴岡に緊急撤退したとき、池田氏を含む多くの留用日本人たちも鶴岡に移った。そのうち、中核をなす人々は中国映画人と苦楽を共にして、人民映画創設の仕事に携わり、新中国の映画事業に貢献したことは今でも語り伝えられている。 

氏の友人・横川次郎氏は回想録で次のように述べている。池田氏の経歴については、「当時『人民中国』で仕事をしていた中国人(日本人も含めて)は、おそらく知らなかっただろう」「日本の敗戦前には、彼はずっと中国の解放区に逃げる計画を立てていた」「日本が降伏してから彼の念願は実現したわけだが、それ以前の厳しい情勢の下で、彼はこうした決心をするだけの勇気があったのだ。さすがに往年の革命勇士だけのことはある」「池田氏は、日本敗戦後、中国共産党指導下の『北満』解放区に入り、解放戦争のために力を尽くした。私と彼はチャムス・鶴岡時代にすでに交際があった。彼は理論家で文章もうまかった」。横川氏の回想では、鶴岡に避難してきた元「満鉄」の日本人職員のために学習の指導を担当したことがあり、約100人の集団だったが、みな映画監督(その中には有名な内田吐夢監督などもいた)や技術者たちで、「東北電影製片廠」に留用された人々だった。 

言うまでもなく、池田氏が瀋陽の『民主新聞』社に赴任したのは東北全域が解放された後の事だった。 

63年6月、『人民中国』日本語版は創刊10周年を迎え、同月13日、中国人民政治協商会議の大ホールで祝賀会が催された。宴会が始まる前、康大川氏の案内で休憩室でくつろいでいるとき、今日は周恩来総理と陳毅副総理が出席されるので、奥様とご一緒に第一テーブルに着席してくださいと告げられた。池田氏にとっては突然のことで、びっくりし、私がメインテーブルに座るなんてとんでもない、誰かほかの方にお願いしてくださいと答えた。池田氏は『人民中国』で10年間働いた「功労者」なのだから、メインテーブルが当てられるのは当然のことで、康大川氏は強引に座ってもらった。池田氏は周総理の隣に席が用意されているとは夢にも思っていなかったので、この上なく光栄に感じた。のちに、「あの日はわが人生で最良の日でした」と筆者に述懐していた。 

前述の西園寺家で陳毅副総理と対局した翌日、予期せぬ出来事が起こってしまった。午前10時、仕事の合間の体操の時間に、池田氏はまだ添削し終えていない原稿を広げたまま、いつもの通り庭で太極拳をしてから、同じ敷地内にある宿舎に戻った。業務再開の時間になっても事務室に姿を見せない。しばらくして誰かが、池田先生がトイレで倒れ意識不明になっていると知らせてきた。みんなが駆け付けたときにはもう担ぎ出されて車に乗せられるところだった。猛スピードで協和病院の救急診察室まで運んだが、医師は無情にも、氏の心臓がすでに止まっていると宣告した。まだ57歳。こんなに早く、あわただしく逝ってしまっては……。その場にいたわれわれは悲しみに打ちひしがれた。 

「池田亮一先生が中国の社会主義建設事業と中日人民の友好事業のために果された貴重な貢献は永遠に私たちの心に刻まれています。先生が世界人民の革命事業と中日両国人民の友誼のために尽くされた精神は称賛に値するものです。先生が掲げた中日友好のたいまつを後の世まで伝えていかなければなりません」 

陳毅副総理が631030日、池田亮一氏を追悼して述べたこの言葉が忘れられない。  

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