ベテラン翻訳者・ 戎家実
劉徳有=文
『人民中国』(日本語版)で一番長く働いた日本人はといえば、今でも懐かしい戎家実氏だ。氏は菅沼氏らと共に、瀋陽の『民主新聞』社から北京にみえ、『人民中国』の創刊準備に加わった。草創期の日本語部翻訳班の日本人スタッフは、戎家氏と林弘氏の2人しかいなかった。戎家氏と一緒に北京に来た日本人は、のちに次々と帰国し、病気で亡くなった人もいたので、日本人スタッフでは、戎家氏だけが、創刊時から1977年に亡くなるまで25年間、ずっと『人民中国』で働き続けたことになる。
戎家実氏(写真・劉徳有氏提供)
翻訳班で、筆者は毎月少なくとも1、2篇の原稿を訳していたが、新米だったので訳文は全て日本人スタッフに手を加えられ、さらに日本人のリライト専門家に渡って手直しされた。まず見てもらうのは、戎家氏か林弘氏だった。戎家氏は広い知識の持ち主で、日頃からどんな本でも読み、読みあさる範囲も広かったので、訳文に朱を入れる途中で厄介な問題にぶつかると、関係のある資料をすばやく、しかも的確に探し出したり、うってつけの訳を探し当てていた。筆者は翻訳の中で、工業、農業や科学技術関係の難しい言葉にぶつかって解決できないことがよくあったが、そんなとき、戎家氏に教えを請うと、書棚から本や辞書をさっと抜いて、調べたい言葉を熱心に引いてくれた。戎家氏にはこういう能力があったので、私たちの間では「生き字引」と呼ばれていた。
戎家氏の特徴は、硬い文章や長い文章を訳すのにたけており、しかもそのスピードが実に速いということだった。急ぎの文章や長い文章が来たときには、皆おのずと氏を頭に浮かべた。あの頃は政府活動報告など1万字以上の原稿がよく回ってきたが、全て戎家氏が一人で訳された。あるときなど、原稿を渡されたとき冗談半分に「また急ぎですか?いつもこんなふうだと、引き受けるのがいやになるなあ」と言いながらも、やはり原稿を受け取って、翌日の出勤時には訳し終わった原稿を提出した。目が赤く腫れぼったいことから、徹夜で仕上げたことが分かったものだ。
戎家氏は仕事に対する責任感が強く、『人民中国』日本語版の質の向上と、雑誌としての焦点の強化に情熱を傾けた。雑誌の合評会が開かれるたびに、真剣に事前準備をし、一つ一つの文章を几帳面にチェックし、赤ペンで線を引いたり、余白に書き込みをしたりしていた。合評会では積極的に自分の意見や見解を述べた。率直な性格の人で、言うべきことは何でも言うため、時には人の感情を害するようなこともあったが、より多くの人からは好感を持たれていた。
戎家氏と一緒に仕事をしていたとき、筆者はまだ21歳、いろいろな面で未熟だった。同じ翻訳班にいたので、普段の仕事の中で援助を受けることが多かった。筆者の訳文に手を加えた後、なぜこう直したのかを根気強く説明してくれたので、教えられるところが多かった。なるべく早く日本語のレベルを上げて、翻訳の法則を身に付けられるようにと、いつも筆者に日本語の書物を紹介したり推薦したりしてくれた。一緒に仕事を始めてしばらくしてからだったが、当時モスクワの外文出版社が出版したレーニンの『国家と革命』などの日本語訳の本を筆者にくれた。以前親友が読んでいたものだと説明し、「これを回すのは、政治学習の助けになると思うし、翻訳の観点からいっても勉強になると思うからなんだ」と言った。あれから70年の歳月がたったが、贈られたこれらの本は今でも大事に保存している。
戎家氏は、文系出身ではなく、もともとは技術畑の人だった。1916年に兵庫県で生まれ、幼い頃は中国の丹東で暮らした。45年8月の日本降伏後は、日本に帰ることはせず、中国に一人とどまって、解放区で中国の革命と建設事業に参加した。初めは鉄道部門で技術関係の仕事に就き、のち太原や東北地方などで研究員や技師をしたこともあった。氏は個性の強い人で、生涯独身を通した。
戎家実氏(中央)と実兄の戎家賢氏夫妻(万里の長城にて、写真・劉徳有氏提供)
北京に移って間もなく、氏と筆者はにある(横町)の独身寮に住むことになった。小さな四合院(北京独特の建築様式で、真ん中に庭があり四方が平屋造りとなっている)で、氏が住んだのはの横の数平米しかない小部屋だったから、出入りするときは同僚の部屋を通らねばならず、不便極まりない。趣味が本屋通いと、年画や影絵や切り紙細工など中国の民芸品の収集だというのを知ったのはその頃のことだ。たまには自分でも切り紙をすることがあり、なかなかの腕前だった。また京劇が大好きで、いい芝居がかかると、必ず観に行っていた。中でも敵役の名優・に夢中で、「僕は個性的な男の歌い方が好きなんだ。裘盛戎は小柄なのに、どこからあんな大きな声が出るんだろう。しかもあんなに味わいが深いしね」と言っていた。京劇ファンの戎家氏は、名優のレコードをたくさん収集しており、容易に入手できないものも多くあった。
『人民中国』で働いた25年間、戎家氏は北京の庶民とたくさん友人関係をつくっていた。運転手、ボイラーマン、大工、電気工、修理工、受付係、こうした人たちと仲良しだったし、近所の本屋や商店の店員、飲食店のウエーター、郵便配達員、時計修理や靴直しの職人たちとも打ち解けた会話をしていたので、中国の庶民の意識や様子をよく知っていた。
戎家氏は学生時代、修学旅行で日本に一度行ったことがあるが、その後は二度と帰国することはなかった。73年に兄と兄嫁がわざわざ北京まで、20年も離れ離れになっていた弟に会いに来たときには、兄夫婦のお供をして、上海、杭州、広州などの地を回った。兄が弟に日本に帰るよう再三勧めたが、仕事が忙しいからと言って帰ろうとはしなかった。
筆者が新聞記者で日本に滞在していた60年代の後半、休暇で北京に帰ったときなど、戎家氏によく会っていたが、後に喉頭がんにかかり、それでも休まずに自宅で翻訳原稿をこなし、唐山大地震の際には、皆と一緒にテント住まいを堅持されたと聞いている。長い闘病生活ののち、亡くなられた悲報を東京で聞き、本当に惜しい方を亡くしたと悔やまれてならない。