文学青年・林弘
劉徳有=文
林弘さんは、私より一つ年上で、大連生まれ。1952年の冬、『人民中国』日本語版の創刊のため、瀋陽から北京に来て以来、机を並べて仕事をするようになった。同じ大連生まれでも、中学が別々だったので面識がなく、お会いした頃はまだ22歳で「文学青年」の誉れがあることを知った。幼い頃から文学が好きで、詩や小説などの翻訳がすごく得意だった。漢詩など難しくて誰も手に負えなかったが、彼の手にかかると、素晴らしい日本語の詩になった。
楚の国の憂国詩人・屈原の『楚辞』「哀郢」を訳したことがある。その一節――
長江に入ればはてしなき波間
舟は矢の如くはしれど行方は知れず
わが胸のもだえはつきず
千々に乱れてとけがたし
22歳の若さにして難しい漢文の詩をこのような名訳に仕上げたのはあっぱれだ、と読んで舌を巻いた。
小説の翻訳もうまかった。創刊号の準備段階で翻訳した『山村の一日』(田流作)の冒頭の部分を読んですごく感心したのを今でも覚えている。
「(前略)朝早く、まだ星がまたたいているうちから、王さんは目をさました。
『やれやれ、もう日曜日がきたか。はやいもんだ……』起きぬけに服を着ながら、王さんがつぶやいた。」
私は心ひそかに、林さんをお手本として見習う決意をした。
いよいよ創刊号の仕事に取り掛かるというとき、康大川氏は、作家の魏巍氏の朝鮮戦地からのルポルタージュ「前進せよ祖国」を私に訳すようにと指示された。文芸作品を訳すのは初めてだった。しかも中国語から日本語に。
翻訳に取り掛かるまでは、やる気満々だった。中国語に、「生まれたばかりの子牛は、虎にも怖じず」(初生牛犢不怕虎)ということわざがあるが、今思えば日本語の「なんとか、蛇に怖じず」のようなものだったろう。
しかし実際に訳してみて、これは手に負えないものだと分かった。文芸作品の翻訳は実に難しい。情景描写のほかに、志願軍兵士の対話がふんだんに出てきた。日本語に訳すとき描写は描写らしく、会話は会話らしく区別しなければならない。さもなければ、味も素っ気もないものになってしまう。これには、苦労した。訳しては直し、直しては写すこと数回(ワープロやパソコンのない時代だ)、ようやく翻訳を終えて、決められた手順通り、専門家に見せる前にまず林弘さんに渡して、第1段階のリライトをしてもらおうと思った。
ところが、林さんは私の翻訳にざっと目を通しただけで、そのまま原稿を引き出しにしまい、数日後に返してくれた。
「自分で直してよ」
そう言われて、私は全身氷のようになり、完全に自信を失った。しかし、再度挑戦するよりほかに仕方がない。ありったけの力を振り絞って取り組み、これ以上どうにもならぬところまできて、再び林さんに見てもらった。今度は手を加えて、菅沼さんに引き渡してくれた。
たぶん林さんは好意からそうしたのだと思うが、私をくじけさせたのも事実だ。しかしそれは一時的なことで、むしろ私を発奮させ、生涯使い果たすことのない有益な教訓を身に付けさせてくれた。
翻訳の力を高めるのにどうすればよいか。これはもう勉強する以外にないと思った。
初期のころ、『人民中国』編集部は、みんな一つの大部屋に集まって仕事をしていた。そこの一角に書棚があり、日本から贈られた本がぎっしり詰まっていた。私にとって、まさにそこは知識の宝庫である。暇さえあれば、取り出して読んだ。むさぼるように、無我夢中で、かたっぱしから読み漁った。
林弘氏(右)と本文筆者(写真・劉徳有氏提供)
日本語に訳された中国の小説には茅盾の『真夜中』(中国語では『子夜』)、巴金の『寒夜』(『寒夜』)、老舎の『四世同堂』(『四世同堂』)、趙樹理の『李家荘の移り変わり』(『李家荘的変遷』)などがあった。日本文学は志賀直哉、芥川龍之介、小林多喜二、徳永直の作品などを乱読した。タカクラ·テルの『箱根用水』を読んだのもその頃である。翻訳小説は、できるだけ原書を探してきて、照合しながら読み、ノートを取った。
書棚には、当時中国では珍しい映画シナリオ『どっこい生きてる』やマッカーサーの命令で直前に中止された2・1ゼネストをはじめ、戦後の日本労働運動、血のメーデー事件を扱った本もあり、人的交流のなかった時代に、戦後の日本を知る上で参考になった。
どういうわけか、『どっこい生きてる』の主題歌の歌詞は今でもハッキリ覚えている。
雨や風には ひるみもせぬが
ニコヨン暮らしにゃあぶれがこわい
晩の飲み代ほしくもないが
帰り待ってる餓鬼かわいい
そうだよどっこい
どっこいおいらは生きている
戦争が終わった直後、日本社会の底辺にあえぐ勤労者の姿があまりにも強烈に心に焼きついたからであろう。「ニコヨン暮らし」の表現は、私にはとても新鮮だった。
ところで、そのタイトルの『どっこい生きてる』だが、中国語でどう訳せばいいか?まず「どっこい」で引っかかった。適訳がなかなか見つからない。偶然の機会に、ある同僚の手になる中国語訳を見つけた。『不,我們要活下去!』と訳されていた。直訳すると、「いや、おいらは生きていくのだ」の意味で、いくらか原題からずれている気がしないでもなかったが、中国語で声に出して読むと、力強い。この点だけは確かだ。日語中訳は、このように融通性を持たせて訳すこともできるのか、と思ったりした。
また、政治性の高い論文も一生懸命勉強した。たとえば、毛主席の『人民民主専政を論ず』の日本語訳を中国語の原文と照らし合わせて、重要な段落を暗記できるまでに精読した。
『人民中国』編集部は、あらゆる意味で日本語を学ぶ格好の場であった。別に授業を受けるわけではなかったが、毎日の仕事が日本語の勉強だった。
私は1964年の秋、中日記者交換の第1陣の記者の一人として日本に赴くまで、都合12年間『人民中国』編集部で働いた。
この優れた環境に恵まれたことを、今でも幸せに思っている。小さいときに大連で学んだ日本語は、しょせん子どもの日本語で、日常生活の用は足せたが、それ以上でも以下でもなかった。もちろん、その後日本語を学ぶ上での重要な基礎にはなったが……。しかし、私の日本語の力が高まったとすれば、『人民中国』の12年間がカギになったことは言うまでもない。
中学2年の学歴しか持たない私にとって、『人民中国』はまさに日本語学習の「社会大学」であった。