第23回 インドネシア 先鞭をつけたのは安渓茶商

2021-05-27 16:41:08

須賀努=文写真

  東南アジアの華人茶商について、これまでいくつもの国を取り上げてきた。だが、1つ忘れている大きな国、それがインドネシアだった。実はこのインドネシアこそ、華人探しの旅における鬼門と言ってよい。今回はその旅の様子を紹介してみたい。

  茶旅でインドネシアを訪ねたのはもう数年前のこと。1955年にあのバンドン会議が開かれたバンドンへ行き、その郊外の茶園を訪ねた。オランダ時代から続く、大きな茶畑と茶工場を持っており、従業員も茶摘み人を合わせると1000人を遥かに超えていたので、その規模に驚いた。植民地の茶園経営としては、インドやスリランカに引けを取らない。

  インドネシア茶業は、17世紀末にオランダ東インド会社が中国から茶の種が持ち込んだというが、19世にその需要が高まると、試行錯誤が始まった。1820年代に長崎のオランダ商館に居た植物学者シーボルトに命じて、その茶の種を送らせたとの記録もあるという。同時に中国に人を派遣し、その種から職人まで持ち帰り、1850年代に中国式生産が確立。1870年代以降はアッサム種が植えられ、紅茶生産が盛んになった。現在でも世界有数の茶葉生産国ではあるが、その中に華人の影は見られない。

  台湾茶の歴史には必ずインドネシア向け輸出が出てくるので、今回はその観点から、第2の都市スラバヤと、第4の都市メダンを訪ねてみることにした。人口2.4億人のインドネシアにおける華人のプレゼンスは僅か5%程度で非常に低く、しかも何度も華人排斥運動が起こり、スハルト政権は30年以上に渡り華語を禁止したため、漢字の看板は極めて少なく、また今の30-50代の華人は華語を学習していないという。

  お茶について尋ねてみたが、スラバヤに中国茶を扱う茶荘は全くなかった。恐らく1960年代スハルトの弾圧があった頃までに、全ての個人茶荘は無くなっていたという。現在華人、特に老人が飲んでいる茶は、スーパーなどで売っている現地生産の安い茶であった。

 

スラバヤ スーパーで売られていた茶

  華人探しでは役に立つ郷土会館。だが安渓会館は20年ほど前にできたばかりで、会員に茶を商っている人はいない。元々スラバヤは華人比率が低く、茶荘は成り立たなかったともいう。福建会館も探してみたが、ついに辿り着くことができないという有様だった。やはりスハルト時代の影響が大きく、昔の資料は何も残っておらず、華人自身もその歴史に関心を持つことはなかった。その中で華人茶商の足跡を追うことは、余程の研究者がいない限り困難だとはっきり言える。

  メダンにも行ってみる。この街には華人が多く住む場所もあり、スラバヤに比べれば華人が目立つ。だがお茶については「メダンは華人も多いが、中国茶を飲む人は多くない。郊外に茶畑があると言ってもあまりピンとこない」という残念な回答だった。台湾人に聞いてみると、「インドネシアで台湾茶が作られているのはメダン郊外だよ」と言われたので、メダンに行けば何とかなるのではと思ったが、そうは甘くなかった。

 

メダン 華人豪邸

  鉄観音茶の歴史を調べるため、その発祥地である福建省安渓に行った時聞いた話を思い出した。安渓西坪南岩村の茶農家の祖先、王三言は代々製茶業を営んでいたが、1870年代に対外開放で賑わう廈門や樟州に茶を担いで売りに行き、1875年には廈門に梅記という茶行を開設した。茶の運搬に苦労したこと及び少し湾曲した茶葉の方が高く売れるという商売上の経験から1880年代に、これまでの伝統製法を踏まえて、茶葉を丸める方法を生み出したとも言われている。

 

福建安渓 梅記茶荘

  この手法は広く知られるようになり、王三言の子孫は中国のみならず、アジア各地にこの茶を売り、富を得たようだ。1945年にシンガポールで、王三言のひ孫にあたる王聯丹が鉄観音茶「泰山峰」で一等賞を受賞したとの話もある。尚梅記は国内の国営化の時期を経て、復活。現在第5代の王曼堯氏とその息子智送氏が南岩村で、一族の伝統を守っている。工場の横には、王三言が建てたと言われる泰山楼が120年の時を経て、その歴史の上にしっかりと建っている。

 

安渓 泰山楼

  この王三言が20世紀の初め、経営規模を拡大するため、安渓茶を東南アジアで広めようとした。1906年に息子の王金玉を台北に派遣して泰山茶行を開いた。同時にインドネシアのジャカルタでは孫の王炳炎が梅記を開設し、茶業を開始している。尚安渓華僑志によれば、光緒年間、既に安渓西坪堯陽村の王量、王称兄弟らが、台湾で茶葉を買い付け、インドネシアに運び、ジャカルタ、スラバヤ、スラマンに支店を設けて、商売していたとある。

 

梅記5代目 王曼堯氏

  恐らくこの茶は、1880年代に台湾で作られ始めた包種花茶だと思われるが、前述の王金玉と王炳炎の関係も、台湾で包種茶を買い付け(場合によっては生産)、インドネシアで販売していたのかもしれない。この時代、台湾茶のインドネシアの輸出最盛期で、実は多くの福建茶商、そしてインドネシア華人が、茶葉貿易で巨万の富を築いていた。

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