第24回 インドネシア 華人大茶商 郭春秧

2021-06-30 09:03:46

須賀努=文写真

  インドネシア茶の歴史調査は難しいが、やはりその糸口は華人であり、前回も少し触れたように、特に第2次大戦前の台湾茶輸入が目を惹く。今回はインドネシア華人として成功し、その後台湾茶貿易に関わった郭春秧について述べてみたい。

 

郭春秧

  郭春秧は1860年、福建省泉州同安で生まれた。早くに父を亡くし貧しい生活の中、18歳で叔父郭河東が居るオランダ領東インド(インドネシア)ジャワに渡り、苦労の末糖業で成功を収め、後にジャワ四大砂糖王と称された人物である。

  1887年台湾茶、特に包種茶の将来性に目をつけて、日本統治以前の台湾で茶貿易を開始する。その時台北に開設したのが錦茂茶行。同時にジャワ、スラマンに郭河東有限公司(錦祥)を設立、ジャワに数か所の支店を開き、更には、上海、漢口、天津、廈門など中国の主要茶葉輸出拠点に支店を設け、大規模な茶貿易に乗り出していった。

  日本の統治が始まってすぐの1898年、台湾では任意組合「台北茶商公会」が設立され、初代会長に郭春秧が就任しているが、その理由は、総督府からの勧誘だったと言われている。総督府は従来の華人茶商(主に包種茶を扱い日本に利益をもたらさない商人)を徐々に排除して、茶業における主導権を握る狙いがあったと思われる。

 

台北茶商公会の郭春秧会長(前列左から6人目)

  郭は相当早い段階から総督府と気脈を通じており、双方にメリットがあった。自らも台湾籍を取得(因みに郭は中国籍の他、オランダ、イギリス籍も保有)し、華人茶商とも連携し、勢力を伸ばしたらしい。尚総督府や日本の政財界と良好な関係が築けたのは、当時郭の秘書的役割をしていた堤林數衛の存在が大きかったからとも言われている。山形県出身の堤林は1896年台湾総督府の看守募集に応募して渡台。語学を学ぶ機会を得て、郭の目に留まる。堤林は郭について「彼地にては稀なる人格を有し傑出せる人物」と評している。堤林自身も後にジャワに渡るが、事業的には成功しなかったようだ。

  1900年に郭は会長を退き、呉文秀にその席を譲っている。その頃錦茂茶行は包種茶6種類の「商標登録」を申請し、他の茶商を驚かせている。当人は台湾におらず、この取り仕切りも全て堤林が行っていたのではないだろうか。これにより商標の重要性が認知され、他の茶商も競って商標登録を行ったと言われている。

  当時郭は南洋の包種茶取引で圧倒的な貿易量を誇っていた。一説には最盛期、台湾から輸出される包種茶の3分の1は錦茂茶行が扱っていたとの話もあるほどで、その最大の輸出先はインドネシアだった。当初は華人が飲む茶として扱われていたが、徐々に現地住民にも浸透し、包種茶は欠かせない飲料となっていった。郭のインドネシアにおける包種茶普及の功績は極めて大きい。

  だが1918年第1次世界大戦後の不景気でインドネシアが外国茶輸入禁止令を出し、台湾茶商は苦境に陥る。郭はインドネシア華人らしく、台湾茶商公会の呉文秀評議員と共に、セマラン茶商公会会長の肩書でその影響力を存分に発揮、現地当局と交渉して、問題を解決している。

  因みにインドネシアは包種茶などを輸入する一方、19世紀後半オランダ主導でアッサム種が導入され、紅茶生産が盛んに行われていた。ところが1929年に起こった世界金融恐慌の余波による世界的な景気低迷で、茶の需要が落ち込み、1933年にはインド、スリランカなどと紅茶輸出協定を締結、ジャワ茶の輸出は低迷していく。同時に1932年輸入茶に高関税を課して、自国茶保護政策が打ち出したが、この時も台湾茶は茶商公会が総督府と連携して、その危機を脱したという。

  少し前になるが、郭の子孫から、郭の別荘だった建物が、今も厦門のコロンス島に残っていると聞き、訪ねてみた。今その別荘はホテルになっており、建物中に入ることはホテルゲスト以外できないと言われ、仕方なく外からその重厚な建物を眺めた。庭もあり、優雅にお茶を飲んでいる客もいた。ここ以外にも、春秧の茶荘の名称から取ったと思われる、錦祥路という狭い道もあるが、特にお茶に関連ありそうな風景は今や見当たらない。

 

厦門 コロンス島 旧郭春秧別荘

  1920年郭は香港の北角の土地開発に着手するなど、その事業活動は転換期を迎え、台湾以外に力が入っていく。だが本業の砂糖価格の暴落などもあり、また後継者の息子に先立たれるなど、晩年は思うように事業が進められなかったとも言われており、1935年大稲埕錦茂茶行で75歳の生涯を静かに閉じている。

 

香港 春秧街

  郭の事業転換は、そのまま台湾包種茶のインドネシア輸出に影を落とし始めた。代わって台湾茶商の活躍が目立つようになり、1920年代にはベトナム、タイなど、インドネシア以外への輸出が増えていく。それは同時に総督府が台湾茶輸出の主導権を握り始めたことをも意味する。更に日中戦争勃発後の台湾茶の輸出先は、旧満州、沖縄、タイなどが中心に変化していき、インドネシアの名は徐々に消えていくことになる。

 

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