十二支

2023-04-26 16:52:00

姚任祥=文

古代の中国では暦を表す際、「天干地支」(十干と十二支)のほかに「十二生肖」(十二支、干支)を使うことがある。これは「獣暦」とも呼ばれる。十二支は天干地支よりも分かりやすく、現代になっても多くの人がこれで年齢を計算したり、一年の運勢や吉凶を見たりして、生活の中で何か重大な決断をする際の参考や根拠としている。 

十二支に関する整った記録は、後漢時代の思想家王充が書いた『論衡』に初めて見られる。そこには、子(ネズミ)、丑(牛)、寅(虎)、卯(ウサギ)、辰(龍)、巳(ヘビ)、午(馬)、未(羊)、申(サル)、酉(ニワトリ)、戌(犬)、亥(ブタ)の順番がはっきりと記されている。 

十二支にはどのような由来があるのか興味を持つ人は多い。なぜ小さなネズミが一番目なのか、動きがすばしこく人にも身近な猫がなぜ入っていないのか……。 

その答えは古くからの言い伝えに隠されている。それによると――ある年、道教の神様玉帝が誕生日を前に、全ての動物に正月の9日に祝いに来るよう命じ、先着順に1から12番までの動物を天へ通じる道の守護役に任命し、1年ごとに順番に交代させるとした。猫とネズミは一緒に行く約束をしていた。ところが正月から九番目の日、普段猫にいじめられているネズミは、寝ている猫をわざと起こさずに自分だけ出発した。道中、ネズミはさまざまな困難を突破しながら進んだが、あと少しという土壇場で大きな川に出くわした。ネズミは泳げないので川は渡れない。水面を眺めため息をついていたところに、「お人よし」の牛がやって来た。利口なネズミは、背に乗せて一緒に川を渡ってくれるよう牛に頼んだ。しかし、向こう岸に着くなり、ネズミは身を躍らせて飛び降りて終点に向かい、1番に到着した。悔しくも一杯食わされた牛は2番に甘んじることになった。 

その後に虎、ウサギ、龍、ヘビ、馬、羊、サル、ニワトリ、犬、ブタが次々に到着した。ネズミにまんまとはめられた猫がようやく駆け付けたときにはすでに翌日で、玉帝の誕生日はもう終わっていた。怒った猫は、それからというものネズミとは相いれない嫌い合う関係になったという。 

このユーモアたっぷりで心に響く古い言い伝えの他にも、十二支の起源に関しては諸説ある。そのうち割と科学的なのが、十二支の配列は動物の出没時間と生活の特性に基づいているという説だ。例えば、ネズミの活動時間は通常午後11時から午前1時で、ちょうど1日を12に分けた古代の十二時辰の子時(の刻)に当たる。牛は、その後の丑時(丑の刻、未明の1~3時)に農作業を始めることから2番目――といった具合だ。 

十二支は中国で広く使われているだけでなく、中華文化が深くしみ込んだ東南アジア諸国でも活用されている。しかし、現地の文化の進化に伴い、各国の十二支も発展して少しずつ違いが出てきた。例えば、タイの十二支の辰(龍)は、メコン川に住み、流れと降水をつかさどる川の守護神「ナーガ」とされ、中国の伝統的な龍とは異なる。また日本の「亥」の干支はイノシシで、中国の伝統的な家畜のブタではない。 


十二支の動物などの絵を円形に配置した隋の「四神十二生肖紋銅鏡」。こうした銅鏡は南北朝時代から唐代初期にかけて流行した

十二支の一年の運勢は旧暦カレンダーにとって欠かせない内容だ。毎年初め、新しい旧暦カレンダーを手に入れると、人々はまず自分の生まれ年の干支のページを開き、新しい一年の運勢に素早く目を通すのが習慣だ。もし、その年がちょうど自分の干支の年「本命年」(厄年、年男年女)に当たったなら、自分か家族が道教の寺院に行って「安太歳」という厄払いの儀式をする習わしがある。 

「本命年」とは、その年の干支と生まれ年の干支が同じことをいう。本命年になると運勢は激しく変わり、波乱の年になると深く信じられている。そのため、本命年を平穏無事に過ごせるよう祈願するさまざまな風習が各地で生まれた。例えば赤い帯を腰に結んだり、赤い数珠を付けたりして魔よけや除災を求めることや、自分の干支の飾りを身に着ける……などがある。 

干支の動物の特質は、人の性格にも現れるという。うし年の人は牛のように勤勉でおとなしいとよく言われるが、頑固で怒りっぽいところもある。へび年の人は柔軟で臨機応変だが、八方美人でずる賢く見えるかもしれない。また庶民は、昔から「たつ年生まれの子」に大きな期待を抱いてきた。中国人の考えでは龍は吉祥と権力の象徴だ。また、幸せな結婚と早く子どもが授かる願いを込めて、一部の地方では結婚当日に「寝床転がし」といって、たつ年の男の子にベッドの上を転げ回ってもらう風習もあるほどだ。 

とら年の人は生年月日の相性の関係で、ともすれば配偶者や親子に災いをもたらすとされ、昔はとら年の嫁をもらうのは忌み嫌われていた。そのため、とら年の女性はしばしばわざと年齢を1歳ごまかし、自分がとら年であることを隠して良縁を求めた。また、結婚式でもとら年の人は忌み嫌われ、参列できないばかりか、妊婦や新生児を見舞うことも止められていたほどだ。だから昔の人にとってとら年は凶年も同然だった。 

中国人の干支の運勢相性に対する思い込みの強さは、「とら年の出生率は急減し、たつ年の出生率は急増する」という出生人口の統計からも見て取れる。しかし、「虎」と「福」の発音(フー)が似ていることから、現代の人はとら年を安心して過ごせるように、「虎年到」(とら年がきた)を「福年到」と言い換える工夫をし、その年が幸せな一年になることを願っている。 

 

太歳とは? 

「太歳」については諸説紛々だ。一般的なのが、太陽の周りを12年周期で公転する木星を指す説であり、また太歳とは「太歳星君」と呼ばれる民間で祭る神様のことだという説もある。太歳の神々は全部で60人いて、毎年順番に交代してその年の下界の事柄をつかさどり、60を一巡り(還暦)としている。 

太歳の信奉は漢代にはすでに民間で普及していた。通常、私たちが目にする60人の太歳の像は、それぞれ表情が異なるだけでなく、手に持つ法器(仏具)も異なっている。例えば、ある年の太歳が筆を持てば、この年は政治に大きな変化が現れ、やりや剣などの武器を持てば、その年は奮起すべき一年になる――というように、神々が手にする法器はその年の運勢を暗示している。 

では、「犯太歳」とは何か。これは、生まれた年の干支がその年の太歳の干支と同じであれば、「太歳を侵す」ことになるという意味だ。逆に正反対(十二支の円で考えた場合に相対する)側の干支ならば「衝太歳」(太歳神とぶつかる)ことになる。どちらも全てのことがうまくいかず、災いの一年になるとされ、病気になったり、仕事でも困難な状況になったりするとされている。 

運命は天意によって決められる。だが、人は知恵と信念を働かせて災いを変えようとしている。「犯太歳」や「衝太歳」を解消し、平穏無事に過ごすため、「安太歳」の儀式が民間で広まった。昔、人々は年の始めに赤や黄色の紙に「本年太歳星君神位」(本年の太歳の神様ご降臨)と書いて家の中に貼り、「太歳」を家に迎え入れて祭り、朝夕に線香を上げて拝んだ。年末にはその紙をはがして燃やし、「太歳神」を再び天へと送り出す。これが次第に決まった儀式となった。忙しい現代、人々は初詣のように、新年になると寺院に「安太歳」に行き、道士が経を読んで祈願する。旧暦の正月15日には果物や茶、線香、ろうそくを供え、人々はさい銭を添えて一年の万事順調を願い、厄払いをする。 

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