小麦粉料理(3)
トラを食べた子ども
私の両親は中国南方の出身で、昔から米料理を食べる習慣があった。台湾に来て、友人の家で北方の小麦粉を使った料理を初めて食べた。1949年前後には、多くの北方出身者が台湾に移り住んだ。
子どもの頃、両親がたまに、友人の誰々が北方出身のお嫁さんをもらったと話すのを聞いた記憶がある。その友人の食卓には北方の小麦粉料理がよく並ぶのだと聞き、子ども心に異国情緒あふれる食卓の光景を想像し、とてもロマンチックに感じた。
当時、両親はよく私を連れて友人宅へ食事に行っていた。10歳のとき、初めて呉伯父さんの家に行き、その後、伯父さん宅に行くのがとても楽しみになった。なぜかと言うと、伯父さん宅にいた張さんという料理人が作る小麦粉料理がとてもおいしく、また、いつも面白い話を聞かせてくれたからだった。私が小麦粉料理とその世代の人々の境遇を知るようになったのは、張さんのおかげだ。
呉伯父さんの家は台北の中心部にあり、大きな門を入ると、そこは小さな庭で、広い羽状の葉が茂る背の高いパンの木があった。伯父さん宅に夕方に行くと、玄関の明かりが濃い緑色の木の葉を照らし、家に入る前から異国情緒を感じたものだ。
呉伯母さんはとても上品で、いつも顔に笑みを浮かべていた。玄関で私たちを出迎えると、いつも母に「秋ちゃん、あなたのために張さんは朝から大張り切りで料理の準備をしていたわよ」と言い、緑色のカーテンを引き上げて台所にいる張さんに、「顧さん(母の姓)が来たわよ」と声を掛けた。
私の母は1947年の秋、上海から劇団を連れて台北に公演にやって来た。その後、大好評で何度も公演期間を延長しているうちに、上海が内戦で49年5月27日に陥落し、戻れなくなってしまった。母は結婚する前の5年間、台北の永楽劇場での京劇公演に出演していた。張さんも数多い京劇ファンの一人だったので、母の来訪をいつも心待ちにしていた。
私たちが伯父さん宅に行くと、張さんはいつもおいしい北方料理や小麦粉料理をいろいろ作ってくれた。さらに、特別に肉まんや野菜まんなどの大きな「包子」(中華まん)をたくさん作っては、大きな袋に詰めて家に持ち帰らせてくれた。
張さんは山東省の出身で、背は高くなく、ふさふさの黒い髪に同じように黒く太い二本の眉毛がりりしかったが、表情はいつも穏やかだった。張さんの話には古里なまりがあったので、注意しないと良く聞き取れなかった。
私が最も心引かれたのは台所だった。食事の後、大人たちが居間で談笑しているとき、私はこっそり台所に入って張さんからいろいろな話を聞いたものだ。そこで私が目にしたのは、小麦粉をこねて発酵させるボウルや珍しい麺棒、発酵の種酵母として使う小麦粉の生地、中華風パンケーキ用のフライパン、中華まんを蒸す大きなせいろ……どれも私の家では見られない品々だった。
「これは何に使うの?」。こうした調理器具に触りながら不思議そうに尋ねると、張さんは決まって丁寧に説明してくれた。おかげで、小麦粉が発酵すると生地が2、3倍にまで膨らむことを初めて知った。また、短い麺棒でさまざまなマントウやギョーザの皮を伸ばせることも知った。それはまるで手品のようで、幼い私の心は尊敬の気持ちでいっぱいになった。
調理道具もそうだが、張さんから聞いた昔話も忘れられない。張さんによると、張家は大家族で、土地をたくさん持ち、長男の孫だった張さんは乳母日傘で育ったそうだ。張さんが生まれたときなどは、村中が乳母選びについて話し合ったという。
私が特に驚いたのは、張さんは幼い頃に病弱だったので、家族が体を丈夫にしようとトラを1頭買ってきてつぶし、塩漬けにして毎日一切れずつ煮込んで食べさせたそうだ。それも丸々1年。これには私も目を見張った。トラが人を食べる話は聞いたことがあるが、目の前にいるこの小麦粉料理の得意なやさしいおじさんが、何とトラを食べた人だったとは!
どう猛なトラは本当に栄養があるのかもしれない。張さんは、1頭全部食べたらすっかり丈夫になったという。道理で髪の毛や眉が黒々としているだけでなく、目も人並み以上に神々しい輝きを放っていたわけだ。
張さんは子どもの頃から馬に乗っていて、自分の馬の話になると目を輝かせた。「すごく良い馬だったよ」。張さんはそう語りながら、身振り手振りで「名馬」にまたがる格好をした。右手には水の入ったコップを持ち、前へどんどん歩みを速めた。馬が疾走するようにどんどんスピードを上げたが、コップの水は一滴も飛び散らなかった。
「ほら、この馬の安定した走りを見てよ!」と張さん。「あの頃は本当に元気だったね」と話すその口調は、まるで今の金持ちのお坊ちゃんが、マセラティのオープン・スポーツカーを自慢しているかのようだった。
家が裕福だったこともあってか、家族は張さんに生計を立てる技能を学ばせなかった。戦乱の中、一家は綿入れの服に黄金を縫い込み逃亡生活を始めたが、逃げ延びることができたのは張さんだけだった。途中、辛酸をなめ尽くしたが、結局全ての財産を失った。
あの離散の時代、金持ちの家の坊ちゃんは最終的に台湾に流れ着いた。一人の身寄りもなく、手に職もなく、何もできなかった。だが幸いなことに、張さんは小さい頃からおいしいものを食べて育っていたので、小麦粉料理の作り方くらいは知っており、呉家に安住の地を求めることができた。
張さんが台所で小麦粉料理の作り方や羽振りが良かった頃の話をするとき、その表情は特別だった。それが古里を懐かしむ顔なのだと知ったのは、私が大人になってからだった。
私は16歳のときに父を亡くし、以来、伯父さん宅に食事に行くことはめっきり減った。だが、あの台所で張さんと過ごした時間は頭の奥の引き出しに大切にしまってあり、時折取り出しては懐かしい思い出に浸っている。
2009年に、台湾の映画監督・頼声川氏が演出し、プロデューサー・王偉忠氏が脚本を手掛けた総合舞台劇『宝島一村』を観に行った。劇中、おばあさんが台湾のお嫁さんに伝統的な「天津包子」(肉まん)の作り方を教えるシーンがあった。具材となる野菜と肉の割合は、冬は肉が6で野菜が4、夏は肉が4で野菜が6だよ――おばあさんがこう語ると、私は涙が自然にあふれ出し、止まらなくなってしまった。頭の奥底にしまい込んでいた張さんが目の前に浮かんできたからだった。
張さんの作った包子は、上に十数本のひだがあるものは肉まんで、柳の葉のような形をしたものは野菜まんだった。肉まんの具にはこだわりがあり、上等の牛肉を何時間もかけて煮込んで使うので、驚くほど香ばしい。
野菜まんの具の主役はニラだ。張さんは、ニラが水っぽくなるのを防ぐため、刻んだニラにゴマ油を一滴垂らすことを教えてくれた。そこに炒めたエビの殻やニンジン、シイタケを加えると、さらに風味が豊かになる。
張さんは具材を包んだ包子をせいろに入れると、数分蒸して火を止める。そのまま十数分蒸らし置いたら再び火を付け、数分蒸せば出来上がりだ。こうするのは、小麦の発酵を促して皮をふっくらさせ、せいろから出しても形が崩れないようにするため、と張さんは言った。
張さんは豚肉が具の包子を作ることもあり、それは一口食べるだけで肉汁がジュワっとあふれ出したが、決して脂っこくなかった。皮は真っ白でもっちりとした弾力もある。私は、張さんが生地をこねるときに、きっと秘伝の割合があると思った。なぜならその後、張さんが作ったようなもっちりしてふっくらした肉まんを食べたことがないからだ。
『宝島一村』の公演は3時間余り続き、終演後に観客一人一人に天津包子が配られた。その包子を手にしたとき、私は劇のストーリーの展開と包子にまつわる記憶に思いをはせ、さらに深い感慨を覚えた。
実際、中国大陸の北方地域の人はほとんど包子を作ることができるし、天津包子は特に有名だ。これは、おそらく天津が川と海が交わる大きな港で、水陸の港で毎日多くの労働者が貨物の運搬で忙しく働いていたので、地元の人が手早くさっと食べられる便利な食べ物として開発したのだろう。包子の中身はしょっぱいものも甘いものもあり、いろいろだ。たぶん包子が中国最初のファストフードだったのではないだろうか。
天津で最も評判の包子の専門店は「狗不理」(犬も相手にしないの意)だ。この奇妙な店名の由来は――清の時代、天津に高貴友という名の子どもがいた。その父親は40歳になって初めて子どもを授かったため、その子がすくすく育つよう願いを込め、「狗子」(ワンちゃん)」という幼名をつけた。中国では昔、子どもの厄よけのため、犬や猫などの幼名をつける風習があったからだ。
狗子はその後、絶品の包子を作る特技で店を開く。すると、その味が大評判となり、毎日店に客が殺到。客に返事をする時間もないほど忙しくなった。そこから「狗不理包子」(犬も相手にしない肉まん)の名が広まっていった。
私は小さい頃、「狗不理包子」の由来を知らなかった。あるとき、台北の仁愛路にある「狗不理包子」の目立つ看板を見て、ここの包子は熱過ぎて犬でさえ触ることができないのだと思った。
昔の人には特許という考えがなかったので、仁愛路の「狗不理包子」が天津の「本家」から来たものかどうかは定かではない。だが、唯一断定できるのは、仁愛路の店の主人も49年以降に台湾にやって来たということだ。
張さんの作った包子から演劇『宝島一村』の天津包子まで、50年の歳月が流れた。呉伯父さんも呉伯母さんも、そして張さん、私の両親、劇中に出てくる「眷村」の人々も皆同じように大陸部の各省から台湾にやって来て根を下ろした人だ。
時代の混乱の中で古里を離れた「1949」世代の人たちは、神から与えられた台本に従い、悲喜こもごもの離散の物語を一つ一つ演じてきた。涙が乾けばまた笑顔になり、笑いの先にはまた涙が待っている――なんとつらく複雑な歴史だったのだろう。