悩ましい善行のリスク

2021-11-26 15:40:49

鮑栄振=文

中国語で「扶不扶」とは、道で転んだ老人などに「手を貸して助け起こすかどうか」――つまり「積極的に人助けをするか否か」という意味だ。中国では、この「扶不扶」が十年以上にわたって人々の「ジレンマ」になっている。もちろん、人助けをしなければ良心が痛む。しかし、だからといって気軽に手を貸すと、逆に難癖をつけられたり、訴えられたりする恐れもある。そんな社会の風潮を表している。

このため、現実では困っている人がいても、面倒に巻き込まれることを嫌う人々に無視されるというケースが珍しくない。例えば次のような事例がある。

2017年4月21日夜、河南省駐馬店市内の人通りの多い幹線道路で、信号機のない横断歩道を渡っていた女性がタクシーにはねられた。タクシーはそのまま逃げ去り、はねられた女性は路上に倒れ動けなくなった。事故発生時、多くの自動車や歩行者が現場を通りかかった。だが、車を止めて状況を確認しようとしたり、女性を助け起こそうとしたりする人はいなかった。その結果、一度は身を起こそうとした女性だったが、ほどなく後から来た別の車にひかれ、亡くなった。

この痛ましい事件を受け、多くの人が人心の荒廃(1)を嘆いた。同時に、「扶不扶」が「国民的ジレンマ」となるきっかけとなった南京市の「彭宇事件」が改めて思い出された。

 

論議のきっかけ「彭宇事件」

「彭宇事件」の概要は次のとおりだ。06年11月20日朝、64歳の女性・徐寿蘭さんは南京市内のバス停で転倒し、骨折の大けがを負った。バスから降りた26歳の男性・彭宇さんは、徐さんを助け起こして病院まで送り届け、さらに診療費まで立て替えた(2)。ところが後日、何と徐さんは転倒したのは彭さんがぶつかって来たからだと主張。彭さんに対し、治療費として13万元を請求したのだった。彭さんは徐さんの主張を否定し、治療費の支払いも拒んだ。

二人の間の「払え」「払わない」の争いは、ついに裁判へと発展した。一審は徐さんの訴えを認め、彭さんに対して徐さんが被った損失の40%の約4万5000元の支払いを命じた。その後、二審の直前に両者間で和解が成立したが、和解内容には徐さんに対する補償金1万元が含まれており、彭さんにとっては事実上の敗訴だった。

この事件は全国的に報道され、中国人に大きな衝撃を与えた。社会的な論議が巻き起こり、こんな不公平な判決を言い渡される恐れがあるなら、公共の場で老人が倒れていても「見て見ぬふりをする方がましだ」という風潮が中国全土に広まるきっかけとなった。中には、「彭宇事件の後、中国社会の道徳観は30年後退し、かつてない試練に直面している」とした評論もあった。

 

触らぬ神にたたりなし?

実は、一審の2回目の審理で、彭さんは自身がバスから降りた時に他人にぶつかったことは認めていた(ただし、ぶつかった相手が徐さんであることは否定)。また3回目の審理で徐さん側は、事件当時に警察側が作成した調書(3)の写真を証拠として提出している。この調書は、当時の状況について彭さんの供述内容を記録したもので(原本は警察側のミスにより紛失)、作成した警察側により、この写真は確かに彭さんの調書を写したものであると確認された。

一審は、こうした彭さんの供述や、徐さん側が提出した証拠に基づいて、彭さんが徐さんにぶつかったと考えるのが相当と認定したのだ。法律的な見方からすれば、この判決は妥当だ。実際に彭さんは後年、当時徐さんにぶつかったことを認める発言をしている。

だが事件当時、一部のメディアは、「老人を助け起こした善人が濡れ衣を着せられた」という一方的な報道を繰り返した。その結果、人々のこの事件に対する誤解がどんどん進み、ついに「困っている人を見掛けても助けない方がまし」と善行に及び腰になる風潮が社会に生まれたのである。彭さん自身により真相が語られた今でも、「彭さんは濡れ衣を着せられた(4)」と信じている人は少なくない。

 

ジレンマ解消へ法が後押し

「扶不扶」という問題について、法律上はすでに明確な答えが出ている。

『民事訴訟法』および『最高人民法院(最高裁に相当)による民事訴訟の証拠に関する若干の規定』はいずれも、「権利を主張する者が挙証責任を負う」という原則を定めている。このため、助けられた者(甲)が助けた者(乙)のせいで転倒したと主張するなら、甲がそれを証明しない限り乙はいかなる責任も負う必要はない。

また、『民法総則』においても、勇気を持って正しいことをした者を守るための規定として、「自発的な緊急救助行為の実施により被救助者に損害が生じた場合、救助者は民事責任を負わない」と定められている。この規定によれば、たとえ彭さん(救助者)が徐さん(被救助者)に損害を与えても、救助者は責任を負う必要はない。まして損害が救助者によるものでない場合は言うまでもない。

近年、国だけでなく地方レベルでも『正義のための勇敢な行動(5)を奨励・保護する条例』が続々と制定されており、人々が積極的に危難にある人を助ける社会の実現を目指している。

とはいえ、法律や条例に規定があるだけでは問題は解決されない。重要なのは、これらの規定が実際の訴訟において正しく運用されることである。

発端となった「彭宇事件」の判決は妥当なものであったとはいえ、具体的な審理過程でいくつかの誤りがあり、これが「扶不扶」という道徳問題へ拡大したこととも関係がある。

一審では、彭さんの供述や調書の写真、目撃者の証言など、彭さんに不利な事実認定を行うのに足る十分な証拠があった。にもかかわらず、裁判官は内心で理由が弱いと思ったのか、「ぶつかっていないのなら、なぜ助け起こしたのか」と蛇足的に発言。個人的な経験則を「性悪説」という社会一般の経験・判断に適用し、道徳と信仰を害し、証拠裁判主義に反する事実認定を行うという過ちを犯してしまった。この生活経験からの合理性を欠く事実認定によって善意による善行という価値観は否定され、一般市民はこの審理から、「法律は人助けをする人を守ってくれない」という暴論を導き出してしまった。

実務においては、事実を明らかにするだけの証拠が出そろわないこともままある。また裁判官の中には、一刻も早く事を収めようとし、基本的な事実が明らかになっていないのにもかかわらず双方に和解を促す人もいる。だが、このようにいい加減なところで折り合いを付けるやり方は「泥沼状態」になりやすく、表面的にトラブルを解決できても、問題点や争点は隠されたままで真の解決にはならない。「彭宇事件」の処理も善悪や是非があいまいになり、人々のモラルや社会風潮に深刻な悪影響を与えかねない。

幸いなことに、こうした問題を解決するための取り組みがすでに始まっている。最高人民法院は今年2月、『社会主義の核心的価値観を裁判文書の法解釈・論証に深く反映させることの推進に関する指導意見』を公表し、審理において「扶不扶」などの法律的・道徳的な難題に直面した際は、情理にかなった判断をするよう裁判官に促している。

この「指導意見」の実施によって、救助者が責任を問われるケースが減少し、最終的には「扶不扶」というジレンマが解消されることを期待したい。

 

1)人心の荒廃 人情冷漠

2)立て替える 垫付

3)調書 笔录

4)濡れ衣を着せられる 被冤枉

5)正義のための勇敢な行動 见义勇为

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