桜に託す復興の願い

2020-03-26 16:52:08

邢菲=文・写真

人々が夢を託した桜が咲いた。原子力発電所の事故で大きく傷ついた福島県いわき市。地元の人が、震災直後の2011年5月に「いわき万本桜プロジェクト」を立ち上げた。1年に1000本ずつ、99年間で9万9000本を植えていく計画だ。参加者は地元の人だけではなく、中国人アーティストの蔡国強さん(62)が当初からプロジェクトを支えてきた。蔡さんは現代アートの最高峰であるベネチア・ビエンナーレ金獅子賞を獲得し、北京オリンピックの開幕式の壮大な花火演出を手掛けたアーティストだ。

いわき万本桜プロジェクトのことを知ったのは、12年6月だった。会社のプロデューサーから、「蔡さんは中国人だから、中国人のあなたに撮ってもらいたい。もちろん、放射能のことが心配なら、ご両親に相談して断ってもいい」と言われた。放射能の値が政府規定の安全基準以下だと分かった後、測量機器を持って下見のため現地に入った。

リーダーの志賀忠重さん(70)が、若い世代がいわきを離れる中、世界一の桜を作り、いわきを子孫に永遠に誇れるふるさとにしたいと語ってくれた。「9」には永遠という意味がある。長い時を経ても、決して忘れないという思いが込められた。その主旨に感動し協力を申し出たのが、友人の蔡国強さんだった。蔡さんは無名時代に日本に留学し、志賀さんたちの支援でいわきで個展を開いたり、壮大な野外アートを次々と制作したりした。蔡さんにとって、いわきはいわば第二の故郷だ。

 

蔡国強さん(右)と志賀忠重さん(写真・小野一夫)

いわきの山で初めて志賀さんから震災後の心情や蔡さんとの友情の物語を聞いて、私は強く衝撃を受けた。ちょうど昼食の時間になり、志賀さんからコンビニで買ってきた弁当を勧められた。東京に住む私はそれまで、福島産の野菜や果物を避けていたが、その弁当を食べながら番組を作る決意をした。

撮影は1年間続いた。撮影が行われた12年の頃、すでに蔡さんはニューヨークでアトリエを持ち、世界各地で活躍していたが、プロジェクトのために3回もいわきにやって来た。彼は震災の直後、火薬絵画をオークションに出して得た収入を志賀さんたちに寄付した。志賀さんたちからの返答はなんと、「桜プロジェクトに使わせてください」だった。「最初なぜ桜を植えるのか理解ができなかった。このプロジェクトは一生かかっても終わらない。つまり、この土地を離れないということだ。彼らにとって難しい選択だったが、より幸せで意味があるものだ」と蔡さん。蔡さんも志賀さんも、難しいことをあえて笑いながら楽しくする人だと取材中に強く感じた。山を眺めながら2人がしていた会話が一番印象に残った。 

蔡さん「9万9000本になれば、人工衛星から見えますね。桜の万里の長城。あと何年かかるかな」

志賀さん「あと99年ですね」

蔡さん「大丈夫ですね。自分の孫くらいでできますね」

日常の植樹活動を支えるのはボランティアの人たちだ。震災後うつ状態となった元原発従業員、妻や幼い娘を県外へ自主避難させて寂しい日々を送る会社員、県外から来ていわきに住み着いた復興工事の作業員などさまざまだ。

 

蔡国強さん(左)と志賀忠重さん(写真・小野一夫)

品川裕二さん(70)は、事故を起こした原子力発電所の中で30年間、潜水士として海水を吸い込むパイプの点検などの水中作業をやってきた。震災後、潜水用のゴム製の服は出番がなくなり、干したままになった。品川さんは4カ月ほど家に閉じこもり、そのままいつ死んでもいいとさえ思った。万本桜プロジェクトに関わってから体力が回復し、以前の生活に戻れるようになった。「三、四万本で終わるかもしれないけど、先の六、七万本は誰かがやってくれるだろう。そういう期待感と夢を持って死ねるでしょ」。撮影が続いた1年間、品川さんがだんだん元気になっていくのを見て、桜プロジェクトは次の世代へのプレゼントというだけではなく、今の世代が立ち直る心のよりどころでもあると感じた。

坂本雅彦さん(45)はボランティアの中心的存在で、「草刈り隊長」と呼ばれている。震災が起きた年の秋から、妻と2人の幼い子どもを長野県に避難させていた。坂本さんは職場がいわきにあるため、残ることにした。「人によって、安心だ安全だと言ってたけど、はっきりしないんで。ちょっと、怖いこともあったんで」。坂本さんを取材したとき、家族を避難させた理由や心配事、夢などについて質問を繰り返したが、物足りないと感じた。そのとき、3人の娘を持つカメラマンがカメラを回しながら、「離れ離れになった後、何か娘さんに言われて、ぐっと来たことがありますか」と質問した。坂本さんは「毎回いわきに帰る前、娘に『パパ、行かないで』と言われて、本当に辛かった」と答え終わった瞬間、目に涙を浮かべた。一生懸命涙を抑えようと顔を震わせている坂本さんを見て、私はカメラの後ろで涙を流した。まだ子どもを産んでいない私にはぐっと来た経験がないため、このような質問はなかなか思いつけない。見る人を感動させたり、考えさせたりするためには、まず自分の人生を充実させ、多くのことを体験することが大事だとつくづく思った。いわきでの取材は自分の人生にとって、とてもありがたい経験だった。

 

蔡国強さんが札に書いた「いわき精神永遠に」

 いわき万本桜プロジェクトのことが口コミやインターネットで知られ、遠く北海道からも参加者がやって来るようになった。植樹は月に一度行われ、苗木代は自己負担で、植樹はボランティアのサポートで行う。いわきを訪れる人が増える中、蔡さんは山に集いの場を作る新しい野外アートを計画した。志賀さんたちが20年前のように蔡さんのアイデアで動き出し、山の空き地に全長99㍍の回廊美術館を作った。今では定期的に展覧会やコンサートが行われ、いわきの山に再び笑い声や歌声が響くようになった。

 昨年末までに、いわきの山に4000本の桜の木が植えられた。蔡さんは毎年春に、いわきを訪ね続けている。書き忘れたが、実は私は04年から1年間、交換留学で福島大学に通っていたことがある。この番組は、私が福島にささげた復興を祈る作品でもあった。

 

蔡国強さんがデザインした回廊美術館

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