崖の上の小学校
邢菲=文・写真提供
中国の新学期は9月から始まる。都市部の子どもがもっと遊びたくて学校に行きたがらない一方で、経済発展が遅れた地方には、経済的な理由で学校に行けなくなる子どもがいる。2011年、撮影班は中国・四川省にある崖の上の小学校を取材した。
四川省古路村は、2000㍍級の山々が連なる山岳地帯に位置する。町と村を隔てるのは、中国でも有数の大渡河峡谷。たどり着くためには、断崖絶壁をくりぬいた険しい道を登らなければならない。
崖の道を歩く子どもたち(cnsphoto)
村に暮らすのは、109世帯、369人(以下、全て取材当時の数字)。そのほとんどが少数民族のイ(彝)族だ。400年ほど前に、この地に移ってきて、住み始めたという。村人は、崖の中腹や頂上にあるわずかな平地にトウモロコシやソバを植え、自給自足の暮らしを営んできた。1世帯の平均年収は5万円ほどで、中国の都市部の1人当たりの平均年収の6分の1にも及ばない貧しい地域だ。
村へ至る崖の道は、1990年代に政府が岩肌を爆破して通した。道幅は1㍍余り、狭いところは40㌢ほどしかない。地面は滑らないようにコンクリートで固められ、小さなくぼみが設けられている。それでも、雨が降れば、上から流れてくる水で足元はおぼつかない。決して歩きやすい道ではないが、その道をたどって町の人間がやって来るようになった。撮影班もその道で、機材を馬に載せて村に入った。1年前に電気が引かれていたおかげで、発電機を運ぶという想像を絶する作業は省かれた。
毎週月曜、崖の上の村を目指す男性がいる。申其軍さん、48歳。古路村の小学校の先生だ。申先生は、麓にある実家で週末を過ごし、月曜から金曜までは村の学校に泊まる。途中で合流してくるのは、点在する集落の子どもたちだ。古路村に行くためには、つづら折りの山道を1時間登り、そこからさらに崖をくりぬいて作られた坂道を1時間登らなければならない。申先生は、崖の道から体を出して深い谷を見ようとするいたずらっ子にいつも、「去年、馬が谷に落ちたけど、死体は見つからなかったんだよ」と注意する。
小学校が村にできたのは、今から60年前。どの集落からも歩いて2時間ほどの場所が選ばれた。申先生は30年前、代用教員として、この学校で教えることになった。新しい先生も何人か来たが、皆すぐに町に帰ってしまった。現在、通っている児童は、3歳から10歳までの9人だ。小学校とはいうものの、幼稚園の役割も果たしている。申先生は、1コマの授業で、一つの教室に集まる異なる学年の児童に交替でそれぞれの内容を教える。「例えば飛行機について話しても、見たことがない彼らは形すら分からない。山の子には基礎的な知識がないんだ。勉強するのは大変なことだ」と申先生は嘆く。
授業中1人の少女とその祖父が教室のドアをノックした。この少女は、1週間前に病院で虫垂炎の手術を受けた。手術のために、一家の年収に当たる借金をしたが、両親は体が弱く、返す当てもない。手術を受けた3日後には、少女は家に戻り、翌日から町で売るためのクルミの皮むきを手伝った。村に診療所はない。本当なら病院で抜糸すべきだが、近くの病院に連れて行くにも、崖を下りるなどして5時間はかかる。そのため申先生は、村人のために簡単な治療をできるように独学で学んだ。
撮影班は小学校の倉庫を借りて泊まっていた。放課後、児童の家を訪ね、村人の生活を撮影した。崖の道ができてから、村では家畜を飼う者が増えた。4年ほど育て、町に売りに行き、現金を手に入れるのだ。電気が引かれた後、村の夜は一気に明るくなった。村人が借金までして最初に買い求めたのはテレビだった。食事もそこそこに、夜遅くまで家族でテレビを見るのが日課となった。10歳の女の子に将来の夢を聞くと、科学者になりたいと答えてくれた。さらに、どうすればなれるかと聞くと、よく勉強すればなれるよと笑った。外の世界は、村人の大きな憧れとなった。
村にこんな大きな変化が起きたのは、2008年のことだった。あの崖の道をたどり、都会の新聞記者が小学校を訪ねてきたのだ。それまで知られることのなかった山奥の厳しい暮らしが、一気に中国全土に知れ渡った。それと同時に総額500万円余りの現金と品物が届けられた。2年前からはボランティアによる活動の一環として、村から50㌔離れた町の学校に児童を転校させる運動も始まった。54人いた児童のほとんどは、町で寄宿舎生活を始めた。村の小学校に残ったのは、幼い子どもと極端に貧しい家の子どもたちだった。
11年9月、子どもたちが町の学校へ転校して3度目の新年度を迎えた。2人の子どもが町の学校をやめ、立て続けに村に帰ってきた。その後、申先生のところに、また1人新たに家に帰ってきたと連絡が入った。戻ってきた子は、村でも優秀な生徒だった。申其才くん、15歳。6年生に進級する直前に、自分で退学を決め、戻ってきた。其才くんは、誰よりも転校を望み、町に行った。以前、学校の代表に選ばれ、北京に招待されたこともある。進学の夢を持ち、一生懸命勉強に取り組んでいた。彼は、父親と2人暮らし。母親は5年前に病気で亡くなった。父親は一人で畑仕事をしながら家事もやり、彼を支えてきた。町の学校に通うための寄宿舎代と食費は募金で賄われていたが、こまごまとした生活費も必要だった。父親はこれ以上の借金は無理だという。
中国の制度では、転校した後、元の学校に戻ることは簡単ではない。今のままでは、来年6年生をやり直さない限り、其才くんは小学校すら出ていないことになる。彼は、家に戻ってから、山の頂上で放牧しているヤギの世話をするという。父親は其才くんの生活費に充てようと羊を売ることを考えていたが、その前に彼は学校をやめてしまった。「父はなんとか工面すると言ってくれたが、自分で決めた。本当にお金がなかったから、学校をやめたんだ」。学校の代表として北京に行って何を思ったかと聞いたら、「いつか北京に家を建てて、家族を呼びたいと思った」と答えた。
山で羊を放牧する其才くん
其才くんの事情を聞いた申先生は、こう言った。「寄付した人たちは子どもが転校して目的を達成したと思った。彼らがわずかな負担にも耐えられないということを想像していなかったのだろう。募金や援助は一過性のもので、来る時も来ない時もある。村の将来を考えれば、村の小学校を整備すべきだ。優秀な先生が来てくれれば、教育レベルは上がる」
撮影班のスタッフたちは、思わず其才くんに援助したくなった。しかし、古路村の今までの変化を深く考え、ちゅうちょしてしまった。北京を知ってしまった其才くんは、夢が破れた時、もっと苦しむだろうか。撮影班はどこまで彼の夢を支えられるだろうか。其才くんに援助するなら、町の学校をやめた他の2人の子どもも援助すべきではないか。いくら人のためといっても、他人の人生に影響をもたらすことがどれほど許されるのだろうか。民間人によるボランティア活動や寄付が盛んになりつつある中国では、現金を集める以外にもっと有効なやり方があるのではないだろうか。結局、撮影班は其才くんに連絡先を残して村を離れた。メディアの役割は、直接現状を変えるより、現状を世の中に知らせ、変化を起こすきっかけをつくることだと考えたのだ。
撮影の直後、地元政府のバックアップで、村の小学校に在籍する児童全員が町の小学校に転校した。また政府の資金援助で、古路村にさらにケーブルカーや民宿ができ、村全体が観光地化の道に進んだ。今では全国から観光客が集まり、村人の生活は以前より豊かになった。其才くんは結局出稼ぎに行き、建設現場でクレーンを操作する運転士となった。私は村の変化を遠くから見守り、いつかまた訪ねたいと願っている。