銭歌川 埋もれた知日作家
劉檸=文
言語学者としての銭歌川の名は、中国大陸で無名というわけではないが、彼が作家であり、また深い理解を持つ知日家であることを知っている人は多くないだろう。言語学者としての著作が多く、その大部分がベストセラーであるため、作家の名声は言語学者の名声の影に隠されているようだ。
銭歌川は本名を銭慕祖といい、1903年7月5日、湖南省湘潭に生まれた。17歳の時に、日本に留学。まず自費で都内神田の東亜高等予備校に入学し日本語を学び、両国間の官費(公費)協定で定められた4校の一つ、東京高等師範学校の英文科に合格し、官費留学生となった。彼は中華民国10(1921)年前後の日本留学時代を「人生の黄金時代」と呼んでいた。「日本は帝国ではあるが、決して人々の思想を弾圧することなく、そこではいかなる学説も主義も宣揚することができた。マルクス主義、レーニン主義でさえ、さまざまな小冊子が出版されており、誰でも購読することができた」。これは銭にとって確かに幸運なことだったが、この幸運は「大正デモクラシー」から「九・一八事変」に至るまでしか続かなかった。
銭の専攻は英文学で、帰国の10年後、今度は英国に渡り学問を深めた。抗日戦争時期には、武漢大学や東呉大学で教授を歴任する傍ら、翻訳や著作を世に送り続けた。また、朱世明中将の招聘を受け、連合軍対日理事会中国代表団の秘書主任となり、後に専門委員となった。英語と日本語に精通していたことから、マッカーサーの連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と中国国民政府、日本政府間の連絡や公文書の起草を専門に担当した。47年、台湾大学の陸志鴻学長の招きに応じ、同大学の文学部創設に携わり学部長に就任した。64年にシンガポールに赴き、南洋大学で中国文学と翻訳を教えた。72年、70歳という高齢で同大学を退官すると、米ニューヨークに移り住み、90年に亡くなるまで暮らした。
没後30年、英語学者としての名声に長年隠されてきた作家・銭歌川の知名度は日増しに高まり、研究者も多数に上っている。筆者は、銭の知日作家としての一面をより重視している。
2016年、岩波書店は『日中の120年』全5巻を出版した。120年来の、中日両国の代表的な文化と両国関係について論述した文芸・評論作品を収録している。この第2巻『敵か友か』の中に、銭歌川の「日本の女性」(初出は『宇宙風』第25期、1936年9月16日)が掲載されている。東西の女性の相違について忌憚なく論じた6~7000字ほどの文章で、日本の女性文化のさまざまな面とその伝統的成因について語っており、「大和なでしこ」現象研究に得難い資料となっている。残念ながら筆者がこの文章を読んだのはあまりに遅すぎ、また日本語版しかなく中国語版がいまだに入手できていない。このため、筆者は一つの問題について考えてしまう。
銭歌川は日本が平成時代に入ってすぐの1990年にこの世を去った。書き表した日本女性観は、昭和以前の文化的考察と言うべきだろう。現在の日本女性の「豹変ぶり」は、かなりの部分が平成時代の経済・社会の変化の結果であると考えられている。中国の詩人・徐志摩(1897~1931)が『沙揚娜拉(さよなら)』という詩で書いた、「最是那一低頭的温柔,像一朶水蓮花不勝涼風的嬌羞」(あのうつむいたしとやかさ、涼風に耐えられない蓮の花のようになまめかしい恥じらい)式の大和なでしこから、ビジネススーツを身にまとった職場の「肉食女子」への変化は、ちょうど男たちが背広に革靴の「企業戦士」から、すねかじりや引きこもりの「草食男子」へ変化する過程を「相互補完」している。それは、同時に放たれたが、一つは上に向かい、一つは下に向かう放物線のようだ。
もちろん、これに関する考察はすでに銭歌川の仕事ではなくなっているが。
銭歌川の作品を収録した『日中の120年--文芸・評論作品選』第2巻(全5巻)、張競・村田雄二郎編、岩波書店2016年3月第1刷(写真提供・筆者)