長谷川如是閑 魯迅兄弟が注目した名記者

2020-05-25 18:59:15

劉檸=文

 昨年、街で『日本現代史』という本を見つけた。本の内容に引かれたというより、著者の長谷川如是閑(1875~1969)という名前で購入を決めた。

 日本のフリージャーナリストの草分けである長谷川如是閑を知る人は、今ではもう多くないかもしれないが、戦前には非常に有名で、中国や欧米の研究者も少なくない。政治評論家であり、また学者でもあるため、長谷川は日本文化について詳説するときに、単に政治あるいは文学から語るだけでなく、歴史、文化、民俗、ひいては料理など多方面に着眼している。『日本的性格』などの著作で彼は、日本の文化的性格を四つの面から定義している。それは、寛容な性格(海外文明の摂取)、経験主義的傾向、文明の全国民性、平和的性格だ。これは当時勢いを増していた「日本主義」「皇道主義」などの主流イデオロギーとは距離を置くもので、中国の作家で魯迅の弟の周作人は「知音」(心を知り合った友)と見なした。

 周作人は「怠工之辯」(怠業の弁)という文章の中で次のように書いている。「同郷の友人が東京から手紙を送ってきて、長谷川如是閑氏を訪ねたという。長谷川は、日本を理解したいなら文学を訳すだけではならず、明治の作家の作品も訳すべきであり訳さなければならない。なぜなら彼らの表現には日本の精神があるためで、最近の人の作品はただ個人の趣味にすぎないと話したという。日本の古い世代の中にわれわれと同じ意見があることは喜ばしく、とても意にかなうことだ」

 周作人の言う「同郷の友人」とは、民国時代の著名な出版人、陶亢徳のこと。陶は東京に住んでいた1944年に、名を慕って長谷川を訪ね、後に「訪長谷川如是閑」(長谷川如是閑を訪ねる)という文を書いている。陶の文章中で、この日本の文壇の先達は「和服を着た、白髪で長身の、眼鏡をかけ容貌がふっくらした老人」であり、中日の文化交流面の問題について語り、「日本を理解したいなら、ただ文学に基づくだけのやり方は用をなさず、科学、美術工芸などについても知らなければならない」と話したという。

 実は陶亢徳が長谷川如是閑を知ったきっかけは、魯迅だった。33年、魯迅は陶への手紙の中でこの東洋の名記者を「……長谷川如是閑は全集を出しているところで、この人の観察は非常に深いが文章は極めて難解、普通では理解しづらく、翻訳が極めて難しい」と紹介した。魯迅は長谷川の随筆「猪の聖者」と「歳の始め」を翻訳し、25年の旬刊誌『旭光』の第4号と翌年1月7日の新聞『国民新報』副刊にそれぞれ発表している。

 魯迅はとても早い時期から長谷川に関心を寄せていた。雑文「中国人の顔について」の中で、魯迅は「日本の長谷川如是閑は風刺文を書くのがうまい人である」と賞賛している。「『面子』について」という文ではまた、長谷川の「盗泉」に関する警句を引用し、彼が「古は渇して盗泉の水を飲まず、今は盗泉の名を改めて飲む」と述べて現在の人格者を風刺していることを紹介している。

 28年11月11日、魯迅は上海の内山書店の経営者、内山完造の紹介で、長谷川如是閑と一度だけ会っている。3日後、魯迅は再度内山書店を訪れ、自らの著書『彷徨』と『野草』の2冊を、内山に託し長谷川に贈った。この2冊はサインの入った鈐印本に違いない。

 

長谷川如是閑。1951年土門拳撮影(写真提供・筆者)

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