劉檸=文
「美術関係」は魯迅と日本の重要な関係の一つといえる。他のことはさておき、装丁デザインの趣味からだけでも、すぐに魯迅が明治、大正期の日本の書籍装丁文化の影響を深く受けているのをうかがい知ることができる。数年前、筆者は「蕗谷虹児と魯迅」という一文を書き、魯迅の「美術関係」中の蕗谷虹児の存在について述べたが、軽く触れただけで語り足りなかった。
魯迅は1927年、上海の内山書店で蕗谷虹児の作品に触れ、一目で心を引かれた。魯迅は蕗谷虹児の芸術について「深夜のように暗く、清水のように透き通っている」と評した。そして、29年に12作品を収めた『蕗谷虹児画選』を編集・出版した。
この本は疑いなくあの時代の、中国の作家が日本の画家に対して示した敬意であり、中日両国の文化交流史上の重要な1ページである。日本の作家で映画史研究家の鈴木義昭は「魯迅と蕗谷虹児、大陸と日本の間で、その詩と絵をめぐり、目に見えない『出会い』があった」と述べている。
『画選』が出版されて1世紀近くなる。作家魯迅という観点から見ると、テクストや当時の歴史についての研究は今でも少なくない。しかし、筆者が関心を持つのは詩画集の原作者、蕗谷虹児の側から出発しての研究だ。その中で一つの重要な問題は、いったい蕗谷虹児は生前に『画選』が中国で出版されたこと、編訳者が日本でも尊敬されている魯迅であることを知っていたかどうかだ。これについて、筆者は「蕗谷虹児と魯迅」の中で考証を行った。結論は「蕗谷虹児は生前、……実は知っていたはずだ」というものだ。
それでは、画集出版前に魯迅は蕗谷虹児に手紙を書き、自らの編集の意向を伝え、画家に出版許諾を求めたのだろうか。これについて、東京大学文学部の藤井省三教授をはじめとする日本の主流魯迅研究者の間では、見解は次のように基本的に一致している。「実際、魯迅は、同様に編集・出版した他の画家に、異国の人であっても手紙を送り連絡をとったと言われる。そうだとするなら、魯迅の『手紙』は、日本の虹児のところにも届いたと考える方が妥当かもしれない」
しかし、蕗谷虹児が本当に同書の存在を知るのは1950年代初めになってからであり、戦時疎開してそのまま住んでいた神奈川県山北町でのことだった。その時、地元の町議会議員を名乗る男性が訪ねて来て、簡単に自己紹介するや興奮した口調で、「蕗谷先生、ぜひ中国に行って見てください」と話した。上海の魯迅記念館(51年開館)に『蕗谷虹児画選』が展示されており、しかも編者はあの有名な魯迅だというのだ。
しかし、残念ながら蕗谷虹児は生前、この有名な『画選』を目にすることはなかった。一つには彼が本来とても控えめだったこと、それに加えて戦後の高度経済成長に伴ってメディアの形態がさまざまな変遷を遂げ、画家は各種商業雑誌や絵本の挿絵制作に追われていたため、画選を見る縁に恵まれなかったのだ。このため、学術界には一貫して、蕗谷虹児は『画選』と魯迅について自ら語ることはなかったという印象が残された。
しかし、実はそうではない。63年3月、蕗谷虹児は、当時講談社の絵本の編者だった猪野賢一に宛てた手紙の中で自らの胸中を率直に述べている。
「(前略)中国の父と言われる魯迅先生が、蕗谷虹児の画集を熱心に出版された話は有名ですが、これは魯迅先生が、私を日本の若い大衆のための庶民画家だとしてでございましたね。ブルジョア相手のブルジョア画家ではないと見たからですね」
蕗谷虹児(1898~1979年)のサインが入った写真(写真提供・筆者)
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