小川環樹 「魯迅は、あんなんでなかった」
劉檸=文
中国の学者・李慶による日本の1世紀半にわたる中国文学研究の歴史整理に基づくと、戦前に育ち、戦中に研究を始め、戦後に大成した小川環樹(1910~93)は日本における「転換と成長」期の中核的人物と見なされる。彼の多くの著作はいずれも世界における中国文学研究の名著に数えられている。
名門出身の小川は1934年に中国に留学。魯迅兄弟、章太炎、劉半農、郁達夫、銭鍾書ら中国の研究者・文学者と交遊したが、魯迅の印象はとりわけ深いものだった。
35年3月21日の魯迅の日記に、小川との初対面のことが記されている。小川も日記に当時の様子を書いている。「内山書店に至り、郁達夫の紹介状を出して面会を求めたら、やがて魯迅がやってきた」。小川の第一印象は「背低けれども眼光鋭し。自信に充ちたる様子にて率直に語る」というものだった。
初めて会った時にどのようなことが話されたのか、小川は日記に記してはいない。当時書いていた中国小説史に関する課題についてだったのかもしれない。彼は晩年に書いた文で、魯迅に『中国小説史略』について教えを請うたことだけを覚えていると振り返っている。彼はこうした小説類の研究には、大量の参考書が必要だったに違いないと思い、魯迅に対し、当時は北京大学の書物を使ったのかと尋ねた。魯迅は「いやそうではない。あれは全部瑠璃廠の古本屋で借りた」と話した。古本屋で買わずに借りてきたということに、小川は困惑した。「いつも借りて買わないのでは、時間がたてば店も貸してくれなくなるのでは?」と言うと魯迅は「日本で作った洋服を着込んで本屋に行ったら、快く貸してくれた」と答えた。背広を着れば店主に偉い人に見られるためで、「それ以外には、彼はもうあんまり洋服を着なかった」と続けている。こうした旧市街の書店にまつわる故事は、もし小川が自らの耳で聞き、文にして残さなかったら、埋没してしまったかもしれない。
魯迅との初対面の後、小川は南方にしばらくの間滞在したが、毎月一度は内山書店に赴いた。このため魯迅には何度も会い、幅広い話題について話をした。しかし、何について話すにも、必ず日本語で話し、「魯迅の日本語はほんとに達者だったから、外国人と話しているという感じはしなかった」という。おそらく言語についての問題について語ったためだろう、魯迅は「僕の日本語は明治時代の日本語だから」と話したという。このちょっとしたことから、小川はようやく魯迅の言葉に確かにいささか古めかしい味わいがあることに気付いた。「郁達夫とは違います。彼は大正時代の留学生ですからね」とも書いている。
36年4月18日、小川は再度内山書店で魯迅と偶然会った。簡単なおしゃべりをし、翌日帰国する旨を伝えた。店の主人の内山完造はこれを聞き、黙って書架から岩波文庫の増田渉訳『魯迅選集』を取り出し、他の本は皆売れてしまい、これしか在庫がないから「先生に署名してもろたらいい」と言った。こうして小川の書斎には唯一の、そして永遠の記念が残された。小川が魯迅に会ったのはこれが最後だった。
78年4月、小川環樹は招きに応じて42年ぶりに中国を訪問し、上海に行った。魯迅公園にある魯迅記念館が改修中で見られなかったため、魯迅の銅像を見に行った。ちょうど中国で祖先の墓を参る習慣のある清明節の時期で、像の前にはたくさんの花が供えてあった。小川は銅像の前に立ち、魯迅像をしげしげと眺め、時が逆に流れるように感じると同時に、心にはぬぐえない違和感を覚えた。
「ただ、ぼくはいつもいうんですが、あの銅像は、魯迅に威厳がありすぎる。ぼくが見た魯迅は、あんなんでなかったんだがなあ。もうちょっと心やすく話してくれた。ひとつには、病後でやつれていたということはありますがね。あんなえらそうな人ではなかった」
上海市虹口区の魯迅公園にある魯迅像(cnsphoto)