ジャン=ポール・サルトル 「実存が第二の性を連れてくる」
劉檸=文
ジャン=ポール・サルトル(1905~80年)のように日本の知識人から注目され読まれ続けている欧米の思想家はまれだ。比較できるのは、中国の魯迅かもしれない。早くも1940年に詩人の堀口大学が『中央公論』誌上に、このフランスの哲学者、実存主義の大家が書いた短編小説『壁』を翻訳紹介したが、ほとんど反響はなかった。まさに戦争のためであろうか、日本人が彼の「実存は本質に先立つ」「人間は自由である」「選択は代価にほかならない」「地獄とは他人のことだ」などの思想を再発見したのは、戦後初期だった。鋭い保革イデオロギー対立の緊張の下、それは強烈な共感を呼び起こし、日本は世界で最もよくサルトルの本を読む国、研究書が最も多い国になった。
66年9月18日、慶応義塾大学と京都の人文書院の共同の招きに応じ、サルトルは伴侶で文学と思想の同志でもあるシモーヌ・ド・ボーボワールと共に来日、1カ月近くにわたる学術訪問を行った。これについて、日本のタブロイド紙は「実存が第二の性を連れてくる」(『第二の性』はボーボワールの代表作)という川柳を掲載した。
20世紀で最も有名なこのカップルの訪日期間中、全ての公式、非公式の日程が、さまざまなゴシップに至るまで日本のメディアによって余すところなく報道された。二人は東京と京都で3度の講演会を開き、日本の思想家、文学者、知識界のリーダーと多数の対談や鼎談、座談会を行い、その内容は66年10月から12月号の『世界』『文芸』『三田評論』など主要文芸誌・総合誌に掲載された。
10月14日、NHKはサルトルと、フランス滞在経験のある思想家・加藤周一、フランス文学者でサルトルの『嘔吐』を翻訳した白井浩司による鼎談を放送した。その中で、白井はまずサルトルの日本に対する第一印象について質問した。サルトルは率直に、自分は「ほとんど異国情緒を感じることはなかった」とし、「最初は面白いと感じた、漢字で書かれた看板」も「後にすべて消え失せてしまい、今は日本にいても少しの違和感も感じません」と答えた。そして彼は、異なる国の知識人との相互理解の可能性と重要性について強調した。
人文書院と慶応大学とからお招きをいただいた時に、日本の知識人の、また日本の知識人についてのかなりの量の雑誌論文を読んで、それら知識人の方々の問題の多くがわれわれフランスの知識人の問題と同一であることを了解していたからです。日本に来てすぐにはっきりしたことは、結局のところ理解可能な、共通した事象しか存在していないこと。……日本人はフランス人と同じように生活が苦しく、厳しい国。あるものはフランスと同様な、他のものはフランスと異なった経済上、社会上の問題が山積している国にいるのだという意識、そして全てこうした問題を、顔を合わせた知識人と、終局のところこの世界は一つであり、唯一なものであるという認識から生まれる相互理解の雰囲気の中で語り合えるということです。
訪日期間にサルトルとボーボワールは東京、京都、大阪、箱根、神戸、長崎、広島などを訪れた。彼は谷崎潤一郎、特に谷崎の官能的作品に対する憧憬を少しも隠すことがなかった。残念なことに谷崎は訪日の前年に亡くなっていたため、サルトルは松子夫人と対談を行った。彼はまた、谷崎の墓に参ったが、墓碑に刻まれた「寂」の一字はお気に召さなかったようだ。