田中慶太郎 郭沫若の歴史研究支える
劉檸=文
中日関係史には、著名な書店主が2人いる。1人は内山書店(現在東京にある内山書店の前身)創業店主の内山完造で、もう1人が東京文求堂店主の田中慶太郎だ。内山書店は今も神保町のすずらん通りにあるが、文求堂はすでに歴史のかなたに消えてしまっている。
1880年、田中慶太郎は京都の代々書店を営む家に生まれた。ただ、店は漢籍とは無縁、最初は寺町四条にある皇室御用達の書店で、一部皇室関係の典籍を扱っていた。漢籍を本格的に扱う書店に変わったのは1901年に東京に移転してからになる。当時、田中はすでに東京外国語学校(現在の東京外国語大学の前身)で中国語を学んだ後、店の若主人として北京や上海から大量の漢籍を輸入し始めていた。
08年、田中は北京に家を買い長期滞在した。中国学者や版本学(書誌学)者に教えを請う一方、善本珍書の発掘・収集に力を尽くした。甲骨片や敦煌の経本、『四庫全書』の一部などの貴重な古書を大量に購入し、文求堂は東京で随一の漢籍と中国書画の専門店になった。田中自身もその過程を通じて日本で著名な書誌学者になった。しかし、本郷1丁目にあった店は23年の関東大震災で被災し、多数のかけがえのない書籍が灰になってしまった。
27年、田中は東京大学の赤門の向かいに新たな店を構え、漢籍の刊行と同時に、大学生向けの中国語学習教材や辞典を編集・出版するようになった。この書店はその後、中国文学や東洋学のサロンになり、関西の漢学者から「東京に出向いたら、東大には行かなくても文求堂には必ず行く」と言われるまでになった。日本大学教授の石田幹之助、元京都国立博物館館長の神田喜一郎、法政大学教授の長沢規矩也、駐日オランダ公使館書記官で東洋学者のロバート・ファン・ヒューリックらはいずれもこのサロンの常連だった。その中には中国人の姿もあった。それが亡命作家・詩人の郭沫若だ。
郭沫若は「請看今日之蔣介石」という文章を発表して指名手配され、28年2月に日本に逃れた。日本滞在期間に郭沫若は甲骨文の研究を始め、田中の協力を得た。日本での10年間に、郭沫若は13点の著訳書を出版した。うち10点が文求堂の刊行で、残りの3点も田中が資金援助した。田中は、郭沫若が文学者から歴史学者へと転身する過程における、最大の陰の功労者と言えるだろう。
一連の著作によって、郭沫若は古文字学(古書体学)者、古代史学者の地位を固めただけでなく、生活の保障も得た。郭沫若はこのことに非常に感謝した。
長沢規矩也も、古書店主との付き合いについて語った一連の文章の中で、このことに触れている。
それによると、戦後郭沫若が著名人になって来日した際、忙しい日程の中で、葉山にある田中の墓前に参り敬意を表したという。実は、郭沫若の亡命中、警察は何度も文求堂に調査に訪れ、主人の田中に郭沫若の動向を細かく質問したが、彼はあらゆる手だてを講じてかばい通した。戦争が始まると、郭沫若は田中には何も言わず、妻と息子を残してひそかに一人帰国した。彼が去った後、田中は郭沫若の行動に理解を示した。
大まかな統計によると、文求堂の出版物は200点を下らない。文求堂の漢籍と出版物は、中日両国と世界の漢学界に深遠な影響を与えた。
日本亡命時の郭沫若(写真提供・筆者)