芥川龍之介 上海より北京を愛す

2020-12-07 14:28:40

劉檸=文

中国で最も知名度が高い日本の作家の一人である芥川龍之介(1892~1927年)は、小説家だが随筆も書いており、『中国遊記』は彼の最も重要な随筆作品と言えるだろう。

1921年、大阪毎日新聞(大毎)の海外視察員として中国に派遣された芥川は、3月30日に上海に到着した。埠頭を出ると、すぐに数十人の「黄包車(人力車)」の車夫に取り囲まれた。

「そもそも車屋なる言葉が、日本人に与える映像イメージは、決して薄汚いものじゃない。むしろその勢いの良いところは、どこか江戸前な心持ちを起こさせるくらいなものである。ところが中国の車屋となると、不潔それ自身と言っても誇張じゃない」

黄包車夫に対する印象や断定は彼の上海と中国への「第一瞥」となった。その後、このネガティブな印象は増殖され、強くなり続けた。芥川と大毎の同僚、日本人の二人がまず学んだ中国語は「対不起(ごめんなさい)」「謝謝(ありがとう)」ではなく、「不要(いらない、いやだ)」で、その心の内の拒絶感は推して知るべしだ。

陰気な雨が降るある日の午後、1900年から上海に住む俳人、島津四十起が芥川の魔都見物に同行した。有名な豫園の湖心亭まで来ると、芥川はさらに驚くべき光景を目にした。「その一人の中国人は、悠々と池へ小便をしていた。……曇天にそば立った中国風の亭と、病的な緑色を広げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆々たる一条の小便と、……これは憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時にまたわが老大国の、辛辣恐るべき象徴である」

20世紀初頭の上海は、老舗列強の「オリエンタリズム」的想像の対象であり、新たに列強に加わったばかりの国にとっては西洋につながる入り口だった。谷崎潤一郎、村松梢風、佐藤春夫などの作家が競って魔都・上海に詣で、大量の旅行記や随筆、小説を出版した。東洋の知識人にとって「魔都体験」はある意味、「近代体験」そのものだった。芥川に先んじること2年半、初めて上海を訪れた谷崎潤一郎は、まさに自身の芸術における西洋志向のピークにあり、魔都の初体験は痛快でたまらず、「ここに住みたい」と考えるほどだった。しかし、東京帝国大学英文科出身の芥川は文化的身分、あるいは「文化の原産地」と言えるものを重んじた。古い酒を混ぜた租界の「偽洋酒」は、逆に食欲を損ない、彼はある種の虚無感を覚えた。

芥川は上海に比べ明らかに北京を好み、「私が中国を南から北へ旅行して回った中で北京ほど気に入った所はありません」と書いている。彼は北京にほぼ1カ月滞在し、名勝旧跡を巡って『北京日記抄』を書いたが、その文は「熱」を帯びている。例えば、彼は城壁に上り遠くを眺めるのを好み、「城壁へ上って見るといくつもの城門が青々とした白楊やアカシヤの街樹の中へ段々と織り出されたように見えます」「所々にネムの花が咲いているのもよいものです」「ことに城外の広野を駱駝が走っているありさまなどはなんとも言えない感が湧いてきます」などと書いている。彼は北京で胡適や高一涵に会っている。本来は周作人にも会うつもりだったが、周は病気のため西山に静養に行っており、面会はかなわなかった。

芥川にとって北京は「眼界が一変し」「見るものが全て大中国、何千年の昔から文明であった中国という感じを無言のうちに説明してくれるほどそれは実に雄大な感に打たれるのであります」というものだった。さらには「将来この大中国を統一していく上においての都はやはり北中国だろうと思います」と予言している。しかし、残念ながら彼がその予言が実現するのを見ることはなかった。

 

芥川龍之介(左)、1921年北京にて 

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