実藤恵秀 自省する研究者、中国の争友

2020-12-18 13:01:57

劉檸=文

現代日本の漢学の密林にあって、実藤恵秀(1896~1985年)は、私があらゆる著作を読んだ数少ない漢学者の一人で、異なった版本の著作を収集しているほどだ。

彼の時代の日本社会には「漢学者」と「中国語学者」の対立があった。前者は近世以来、封建思想による支持、官学としての保護を受け、高度な文化的教養とされ、人々に尊敬されてきた。後者は、格付けや権威性の点ではるかに及ばず、「中国通」を養成する一種の実用技能、「大陸雄飛」のための道具と見なされていた。そのため、「中国通」は一面的でやや変態的ともいえる中国観を生み出し、漢学者の心の中に生き続ける古い中国観との間にはずれが生じた。客観的に見てこのずれは、近代日本が中国に対して数々の誤った判断を下す原因の一つになった。これについて、実藤は早くから冷静な目で観察していた。

実藤は1928年、第二早稲田高等学院に講師として招かれた。彼は現実の中国を把握することを非常に重視し、そのためにわざわざ中国からの留学生が多く住む目黒区大岡山に家を構え、多くの留学生と交流した。上海の新聞「申報」を年間定期購読し、自ら「内地留学」と称する生活を始めた。このようにして、実藤は次第に当時の時代とはかなり「温度差」のある中国観を身に付けていった。例えば、彼は中国人が「支那人」と呼ばれることに非常に反感を持っていることを知った。受け持ったクラスには、多くの中国人留学生がいたため、彼は授業で「支那」という言葉を使うことは避け、代わりに「中国」と呼んだ。しかし、これは当時の日本人生徒にとっては理解し難く、受け入れ難いことだった。ある時、彼が教室を去った後、日本人生徒は黒板いっぱいに「中国中国中国……」と書き、先生を皮肉った。それでも、実藤は尻込みすることなく、中国という言葉を使い続け、その後は思い切って家でも使うようにしたという。

普段から中国人留学生と交流していたため、実藤は一貫して中国人がなぜ日本に留学するのかという問題に深い関心を持ち、これを自らの生涯にわたる学術の方向と定めた。36年11月からは「日華学報」に「中国人日本留学史稿」の連載を開始した。抗日戦争の全面的勃発により、「内地留学」と研究は大きな打撃を受けたが、戦時にあって実藤の研究は非常に戦略的価値があると見なされ、外務省の支援を受けて存続し続けた。彼の代表作『中国人日本留学史』は60年、ついに出版され、すぐに日本の社会科学の名著となった。

この中国人の日本留学史には、ぬくもりと困惑、蜜月と離反、屈辱と痛み、高揚と激越などさまざまな事柄が凝縮されており、複雑な東アジアの近・現代史と精神史が包含されている。日本の研究者として、実藤は中国から日本への留学生グループを歴史的に整理することを通じて、中日二つの文化を同時に観察できる一種の座標を得ている。この学術研究の真の価値は、歴史的軌跡のスケッチや再構築のみにあるのではなく、密接に関係する二つの国が、同じ時間軸の中で相互に拮抗し、照らし合う時に、歴史家の目を通してさまざまな表層的現象から問題を捉え、明らかにしていることにあるのかもしれない。

実藤は理想的中国研究について、「それによって、日本文化を豊富にせんがためである。中国に対し教える立場しか考えなかったのは、大間違いであった」と意識していた。彼は、中国は蔑視すべきではなく、「一辺倒」でもいけないと主張した。過去の失敗を教訓とし、歴史的な視点で問題を考え、そこから新たな日中関係を構築し、「卑屈でもなく、傲慢でもない、持ちつ持たれつの互恵平等の日中友好の道を歩んでいこう」と訴えた。別の言葉で言えば、自省を恐れない中国の「争友」であるということだ。 

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