目加田誠 魯迅との対面
劉檸=文
昨年7月号のこのコラムで、私は中国文学研究の大家、小川環樹と魯迅との対面について紹介した(小川環樹 「魯迅は、あんなんでなかった」)。実は、当時魯迅に会うためにわざわざ北京から上海に足を運んだのは小川環樹だけではなく、地質学者出身の人類学者赤堀英三、後に中国文学研究の大家となった目加田誠(1904~94年)もいたのだ。2019年に日本で出版された『目加田誠<北平日記>1930年代北京における日中学術交流』(目加田誠著、九州大学中国文学会編集、中国書店)には、もう一つの面から86年前の対面の様子が描かれている。
目加田誠は日本の著名な中国文学研究者で、日本中国学会の理事長も務めた(71~75年)。33年から35年にかけて北京大学で中国文学を学び、胡適、兪平伯、周作人ら中国の文学者・思想家と濃密に交遊した。この日記は目加田の留学にまつわるエピソードを記録したものであり、また副題にあるように、「九・一八事変」の発生から「七七事変(盧溝橋事件)」の間の、現代中日関係史で瞬く間に消え去ってしまった「小春日和」の時期に両国の知識人がいかなる功利的負担や不純物もなしに行った、純然たる知識の相互作用、文化的交流の軌跡を記したものでもある。その中では、魯迅との短い交流が最も味わい深い。
北京に遊学した学者の目加田が「二周」(魯迅と周作人)を敬慕したのは言うまでもない。彼は二人のうち、周作人とより親しかった。師弟のよしみを持っただけでなく、知堂(周作人の筆名の一つ)は日頃からこの日本の学生の面倒をよく見た。しょっちゅう宴を設けて招き、すき焼きやおでんをふるまい、日本酒を飲んで日本のレコードをかけた。家で作ったいなりずしを届けさせたことさえある。息子の周豊一は、いつもこの学生たちの遊び相手になっていた。
一方、魯迅については帰国前に慌ただしく一度会ったに過ぎない。35年3月21日、目加田ら3人は上海の内山書店を訪れ、主人で魯迅の友人の内山完造に、魯迅と面会させてくれるよう頼んだ。内山は彼らにしばらく店内で掛けて待つようにと言い、自ら魯迅を呼びに行った、とある。
目加田は随筆集『随想 秋から冬へ』で、魯迅の第一印象を独特の表現で記しており、興味深い。
「小柄で痩せた体躯で、しゃんと背筋を伸ばし、きびしい目をして、まるで抜き身の槍でもひっさげているようなきびしいものを、その人から感じた。氏はわれわれの待っているところに来て、上手な日本語でしばらく語っていたが、そのとき、一人の若い女性がすっと現われて、魯迅の側近く立ち、右手の指で左の手のひらに何か書いて見せると、魯迅はうなずいて、ちょっと待っていてくれ、というと、そのまま内山書店を出て行った。
小一時間も待っていると、また魯迅は店に現われ、こんどはゆっくりと座ってわれわれの質問に応じたり、自分から進んで語ったりした。そのとき、店員たちの様子を見ても、気のせいか、何となく店内の空気は緊張していた。しかし魯迅はさり気なく、楽しそうに語った。」
目加田は60年代末に西日本新聞に回顧する文章を発表した際に、すでに当時話した内容については思い出せず、ただ魯迅が繰り返し述べた一点だけを覚えていると書いた。それは「中国人と日本人とは、理解しあえぬはずはない」ということだった。
『目加田誠<北平日記>1930年代北京における日中学術交流』に載っている30歳の誕生日を迎えた目加田誠(写真提供・筆者)