金子光晴夫婦の「上海の旅」

2021-09-14 15:25:20

劉檸=文

金子光晴(1895~1975年)は明治、大正、昭和という三つの時代を生きた詩人で、輝かしい成功を収めた画家でもある。彼は1920年代に、妻で詩人の森三千代と共に3度にわたって上海を訪れ、魯迅や郁達夫ら中国の作家と深い友情を結んだ。

28年、二人は夫婦の危機を解消するため、アジアと欧州への旅行を決意、同年末に3度目の上海訪問を果たした。二人の上海生活は極めて楽しいものだった。光晴は生活費と欧州への旅費を稼ぐため再び絵筆を取り、われを忘れて写生や創作に打ち込み、各所を歩き回った。内山書店の内山完造も「上海へは大勢人が来たが、金子さんのようにすみずみまで歩いた人ははじめてや」と驚いた。三千代は詩人の精神状態を取り戻し、魯迅や郁達夫、白薇ら中国の作家と盛んに交流した。二人の逗留時期については、『魯迅日記』中に多くの記載があり、後の人々が金子光晴を研究する上で重要な資料となっている。

当時、文学界では「革命文学」論争が激烈だった。日本の革命文学運動思潮の影響を受け、創造社や太陽社が魯迅攻撃を行った。光晴夫婦滞在中に上海を訪れた前田河広一郎は、まさに日本の無産階級革命運動で活躍していた人物で、創造社や太陽社と思想を同じくし共感し合っていた。内山が開いた歓迎の酒席で前田河は、礼儀を顧みず魯迅を前時代的な文人と呼び、郁達夫を青白いインテリと決め付けた。その傍若無人さに、内山はあきれて言葉もなかった。後年光晴は『どくろ杯』の中で「魯迅も郁達夫もなに一つ返すことばがなく、ひっそりとしているのをそばにいた私は歯がゆいおもいをするばかりだった」と回顧している。

29年3月31日、光晴の「上海百景」展覧会が日本人倶楽部の2階で開幕し好評を博した。魯迅は自ら足を運び作品2枚を購入した。「上海百景」は技法的には浮世絵肉筆画であり、北斎式の奇抜な発想を溶け込ませた広重風の浮世絵だった。しかし、スタイルはより現代的で、一種の異国情緒が備わっていた。絵の中の上海は、浮世絵春画の自由奔放さを持ち、また「東洋のパリ」の異国情緒も失われていなかった。

個展の成功は、光晴に旅費をもたらしたのみならず、一時的に夫婦を感情の暗いもやから抜け出させた。29年5月初め、二人は香港を経て南洋に向かい、道中で素材収集、創作、絵画販売、交友などを行った。光晴は自称「旅絵師」として、郷愁を感じることもない日々を過ごしたという。この旅行は、本質的には彼の青春時代の放浪の延長だった。ゆっくりとした長い旅が終わり、フランスから日本に戻った時には、すでに32年の5月になっており、東アジアは戦争の暗い気配に包まれていた。

11歳で洗礼を受けたキリスト教徒の象徴派詩人・金子光晴は、生涯日本の文学界とある種の距離を取り続け、母国文化に対する痛烈な批判を行った。文芸評論家の安東次男の言葉を借りれば、金子光晴は「正真正銘異邦人でしかありえなかった唯一の存在」であり、ある意味で生涯「旅の途中」にあったという。

31年に光晴と三千代は協議離婚したが、二人は中国に対する愛、魯迅に対する尊敬を生涯持ち続けた。三千代は34年出版の紀行詩集『東方の詩』(図書研究社)の後記で、29年に郁達夫が開いた宴会で魯迅と蘭の花を巡っておしゃべりしたことに触れ、中国に対する深い思いを次のように述べている。「人懐っこい郁達夫さん。蘭の話を聞かせてくれた魯迅のおじさん。どうしても再会できなかった田漢さん。そういう人達の上海をあとにして、5月、私の船は出ました」

そこには「魯迅おじさん」とその周りにいた左翼文芸家たちに対する、名残惜しい気持ちがあふれている。

 

田沼武能が撮影した金子光晴(写真提供・筆者)

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