黄瀛 中国の軍服を着た日本詩人
劉檸=文
軍人詩人はどこの国にもおり、特に珍しくはない。しかし、特殊な時期に対立する二つの国の間に生まれ、一方の国の軍服を着用し、もう一方の国の言語で詩を書けば、悲劇は動かし難いものになる。
悲劇の主人公の名は黄瀛(1906~2005年)。重慶の名門に生まれた。父の黄澤民は重慶師範学校の校長で、日本に滞在した経験があった。母親の太田喜智は日本語を教えるために単身で重慶に赴いた女性だった。3歳の時に父が亡くなると、黄瀛は8歳で母の故郷である日本の千葉県八日市場(現在の匝瑳市)に移った。大正12(1923)年に関東大震災が起きると、母と共に中国に戻り、青島日本中学校に編入した。大正時代は日本現代詩の成熟期にあり、黄瀛は一方でこの時代の空気をしっかりと呼吸し、もう一方で自らの文化的アイデンティティーから来る不安を感じ、自由詩をむさぼり読んだだけでなく、創作を試みた。インスピレーションの湧くまま、1日に20編ほどを書いたこともある。そして、現地の邦字紙「青島日報」に寄稿するだけでは満足できず、日本国内の雑誌への投稿も始めた。
日本の詩壇はすぐに黄瀛の詩才に気付いた。25年2月、青島の情景を描いた「朝の展望」が、萩原朔太郎らが主編を務めた詩話会の機関誌『日本詩人』の「第二新詩人号」で第一席に選ばれた。朔太郎は講評で、「黄君が日本語に好い耳を有しているのも、思うに恐らく彼が外国人のためであるだろう」と述べ、詩人の創作における、混血という周縁文化的特性の関わりと重要性を暗示した。黄瀛の伝記を著した作家の佐藤竜一は、黄瀛が日本語を話す時に重度の吃音があり「詩を作る上ではそれが幸いし、他の詩人にはまねのできない独特のリズムが醸し出された」と指摘している。
26年、黄瀛は創設間もない東京文化学院に入学した。ここで黄瀛は高村光太郎、草野心平、奥野信太郎など文壇を代表する文化人と頻繁に交遊、一方で主流文芸誌に投稿し、創作の量産期に入った。しかし、一族再興の期待を背負っていた彼は27年、母親の意向に沿って文化学院を中退、陸軍士官学校を受験した。当時、彼の妹・黄寧馨は何応欽のおいと婚約していた。国民党軍ナンバー2と姻戚関係になることは、軍人としての未来により確実な保証を与えるものだった。
陸軍士官学校在学中に、黄瀛は多くの詩を創作し、日本の文学界との交流はより幅広くなっていった。しかし、日本軍が青島や済南に出兵し占領した時代にあって、黄瀛の詩人としての感覚は異常に繊細で、中日関係や自身の文化的アイデンティティーの問題にもより敏感になった。彼は「七月の情熱」の中で次のように書いている。
白いパラソルのかげから
私は美しい神戸のアヒノコを見た
すっきりした姿で
何だか露にぬれた百合の花のやうに
涙ぐましい処女を見た
父が―― 母が――
その中に生れた美しいアヒノコの娘
そのアヒノコの美しさがかなしかった
ここで、詩人は父の祖国と母の祖国が戦火を交えることを予見していたのかもしれない。「アヒノコ」は文化的隠喩であり、また自らになぞらえ、自らを哀れんでいるようでもある。当時彼は日本人女性と交際していたが、戦争のため、やむなく深く愛する人と結婚したいという思いを封印した。30年5月、黄瀛の第一詩集『景星』が東京で刊行された。翌年の初めに黄瀛は中国に戻り、国民党南京軍政部通信部隊の仕事に就いた。その後、戦争末期には陸軍高級参謀、少将になった。31年秋、「九・一八事変」が勃発、中日関係は後戻りできない道に踏み込み、黄瀛の創作の道もここで中断した。
1984年、約半世紀ぶりに日本を再訪した黄瀛(写真提供・筆者)