吉川幸次郎 北京の書店のお得意様
劉檸=文
もし日本における中国学の密林中から、戦後を代表する人物を1人だけ挙げるなら、吉川幸次郎(1904~80年)をおいて他にはないだろう。彼は日本の中国文学・漢学界の第一人者であるばかりでなく、世界的な中国研究の大家だ。吉川がかくも大きな学術的成果を得ることができたのは、本人の不世出の天分と驚くべき勤勉さ、京都大学と北京大学の学術的滋養など主観的・客観的要因だけでなく、あまり言及されていない要素、つまり中国の書店の恩恵もあったと私は見ている。
吉川が教育を受けた大正時代は、日本が最も西洋を崇拝していた時期で、時代の空気は「重欧軽中」(欧州を重んじ中国を軽んじる)だったが、吉川は違っていた。彼は、当時多くの人が中国に軽蔑的な態度を示していることに義憤を感じ、また西洋文学より、中国文学の持つ現実性、日常性に引かれたと振り返っている。京都の第三高等学校在学中に、吉川は意識的に中国人の友達をつくり、同時に書店巡りの習慣を養っていった。寺町書肆街の彙文堂は京都で唯一の中国書専門店で、彼は常連客だった。しかし、すぐに著名な中国学者の青木正児から、上海に手紙を出して直接買った方が安いと指南を受けた。中国から書籍を取り寄せることは、吉川に二重の収穫をもたらした。中国語で手紙を書かなければならなかったからだ。
ついでに書き添えると、1919年の五四運動以前、京都から上海の書店に注文して書籍を取り寄せるのに要する時間は2週間ほどだった。この一事からだけでも、現在までの約1世紀に、東アジアの国際文化交流が果たした進歩が実は限定的だったことが分かる。コロナがもたらしたグローバル化への逆風を考え合わせれば、むしろ後退した感さえする。
28年、北京大学に留学した吉川は中国の書店、特に古書店に深く「入り浸る」ようになり、それは2年半に及んだ。吉川の留学はある意味でタイミングが良く、ちょうど中国の為替が歴史上最も大きく暴落した時期に当たっていた。吉川が持つ奨学金による購買力は当時の北京大学教授の給料に相当したため、彼は北平(現在の北京)の古書店で大歓迎を受け、多数の本屋が下宿に詰め掛けた。
「いろんな本の『頭一本』、最初の1冊を風呂敷に包んで、朝、ぼくは寝坊だったが、起きるまでに10人くらいが門番の部屋に詰め掛けている。それを次々に引見して、頭一本を見て、これは買う、『留下』、留下というと買うことになる。考えた上でそのうち返事するのは『看一看』、ちょっと見せておいてくれ。そうした本屋との応対が、毎朝1時間以上かかるわけだ。それから隔日くらいに文奎堂、来薫閣、通学斎へ行ったな。行けば2時間から3時間くらいおった」という。
吉川が「来薫閣琴書店_瑠璃廠雑記」「瑠璃廠後記」といった随筆の中で振り返った書店業者との交遊は、失われた文化を記録する貴重な証言になっている。一部の細かな描写は非常にリアルで、例えば来薫閣琴書店を訪れた際の様子はこんな具合だ。
店の前に来ると、主人の弟の「二先生」がすぐに出迎えて人力車の料金を支払ってくれる。二先生が「吉川先生来了」と叫ぶと、店内にいる4、5人の店員が一斉に立ち上がって会釈する。その後、店と中庭を横切り、一番奥にあるなじみ客を接待する部屋に通され、店主と会う。「差し向かいで、たばこをのみ、茶をすすりながら、雑談をする。話題の大半は、学者たちのうわさである」。この時、店の小僧さんの誰かが「帙入りの、もしくは帙に入らない裸の本の何冊かを、うやうやしく私の前に置く」と「彼との会話はさらにはずむ。時には、飯をおごってくれる。食器を運んでくるのも、やはり小僧さんの役である……私はこの奥まった部屋に、2時間より少ない時間いたことは、まれである」。
北京の有名な瑠璃廠大街。清代には科挙(官僚登用試験)受験のため各地から訪れた挙人(地方試験の「郷試」に合格した受験者)の大部分がここに滞在したため、次第に北京でも最大の古書店街に発展していった。来薫閣、翰文斎、富晋書社など有名な古書店の多くがここに店を構えていた(東方IC)