水を高所へ流す 霊渠の知恵

2026-08-28 14:45:00

馬愛梅=文 童趣出版有限公司=イラスト提供 石子児=イラスト 

渠は広西チワン(壮)族自治区興安県に位置する。世界初の分水嶺を越える人工運河であり、船を「山を越え谷を越えて」航行させることができた、2000年以上前の「水上高速道路」でもある。湘江と漓江を結び、長江珠江という二大水系を連結している。2018年には世界かんがい施設遺産に登録され、「中国の技術力と工学能力を示す優れた典範」とたたえられた。今日でも、この古い運河はなおその役割を果たしている。 

戦争を契機に建設 

秦の始皇帝が六国を統一した後、嶺南へ軍を派遣して百越(先秦時代の文献に見られる南方沿海地域の古代越族の総称)を征討した。しかし山岳地帯は険しく交通も不便で、軍需物資の輸送が困難であったため補給が滞り、大軍はなかなか前進できなかった。 

そこで始皇帝は史禄に命じ、軍糧輸送を容易にするため人工運河である霊渠を開削させた。工事は5年を費やし、紀元前214年に完成した。大量の軍需物資が水路で前線へ運ばれ、その年のうちに秦軍は嶺南を平定した。続いて桂林郡象郡南海郡を設置し、現在の広東省、広西チワン族自治区、海南省などの広大な地域を秦帝国の版図に組み入れた。 

巧みに選ばれた立地 

広西を流れる漓江と、湖南を流れる湘江は、一方は南へ、他方は北へと逆方向に流れている。しかし、その源流はそれほど離れておらず、水位差も小さく、分水嶺も高くなかった。このことが二つの水系を結ぶ上で天然の好条件となった。 

そこで古代の技術者たちは、両河川が最も接近する地点に人工水路である霊渠を開削し、湘江と漓江の連結に成功した。霊渠の総延長は約37、平均幅は10余り、平均水深は1である。主要施設には、鏵嘴かし、大天平、小天平、南渠、北渠などがある。これらの施設は相互に補完しながら機能し、一体となった水利システムを構成している。そのため霊渠は、都江堰、鄭国渠と並び、秦代三大水利事業の一つに数えられている。 

湘江を二つに分ける鏵嘴 

嘴はすきの刃()に似た形状からその名が付けられた。霊渠の取水口に設けられた分水堤であり、北側のやや長い堤を「大天平」、南側のやや短い堤を「小天平」と呼ぶ。これら三つの施設が人字形の堰を形成している。 

嘴の先端は湘江上流に向けられており、水流を二つに分ける役割を果たす。分流された水のうち3割は小天平によって水位を高められた後、南渠を経て漓江へ流れ込む。残る7割は大天平に沿って湘江へ戻る。 

小天平が巧みに水量調節 

さらに巧妙なのは、大天平と小天平がともに内側を高く、外側を低くした斜面構造を採用していることである。堤頂は両岸より低く設計されており、斜面によって水圧を分散させることで洪水時の安全性を確保している。 

増水期には余分な水が堤頂を越えて下流の湘江旧河道へ流れ出るため、南渠と北渠へ流入する水量は常に安全な範囲内に保たれる。 

霊渠の石堤の築造技術も極めて精巧である。堤頂には青灰色の大型石材を平らに敷き詰め、石材同士にはアリ継ぎ状の溝を刻み、鉄製の留め具で固定しているため非常に堅固である。外側の越流斜面には細長い石材を縦に並べて積み上げており、その模様は魚のうろこのようである。これにより水流の衝撃や摩耗を軽減するとともに排水も容易になり、1000年以上を経た現在も損壊していない。 

南渠と北渠に分かれる霊渠 

南渠の全長は3315で、西へ流れて漓江に合流する。水運と導水を担う主要水路である。 

一方、北渠は北へ大きく迂回う かいしながら再び湘江へ合流する水路で、全長は325である。湘江旧河道に沿って築かれている。 

湘江上流部は勾配が急で流れも速く、船の航行には適していなかった。そのため北渠を開削して勾配を緩和し、水勢を弱めたのである。北渠は曲がりくねって流れることで、湘江の勾配を375‰から1‰へと低減し、船の往来を容易にした。 

また南渠でも、水路の縦断勾配(水路の上下流間の高低差と水平距離との比)を小さくするため、複数のS字形の屈曲区間が設けられている。これにより落差と流速の問題を解決した。 

これは、現存する世界最古の「屈曲水路によって閘門こうもんの機能を代替する技術」の実例である。 

自然に形成された「七三分水」 

南渠と北渠の分流比率が「湘江7漓江3」となっているのは、両水路の開削条件と密接に関係している。 

南渠の上流約10余りの区間は、硬い石灰岩層を掘削して造られたため工事の難度が極めて高く、水路は狭く浅くならざるを得ず、全体の3割程度の水量しか流すことができなかった。一方、北渠は小規模な沖積平野の間を迂回しながら通っており、掘削が比較的容易で、水路も広く深いため、7割の水量を受け入れることができた。 

また専門家の中には、この分流比率は南渠と北渠の通水断面や流速、さらに嘴の位置や大天平小天平の長さなど、複数の要素が総合的に作用した結果であると考える者もいる。 

陡門――世界最古の「船閘」 

渇水期になると水量が不足し、二つの水路を満たすことができないため、船舶の航行が困難になる。そこで古代の技術者たちは、水位を引き上げて水を蓄え、船を通航させるための施設「門」を設けた。 

南渠を通航させる場合には、北渠の門を閉じるだけで、水は南渠へ集中して流れ込む。 

歴史上、霊渠には最多で36基の門が設けられていた。その内訳は南渠31基、北渠5基である。これらは水路の高低差を緩和し、水を高い場所へ導く役割を果たした。 

これは世界最古の多段式船閘の原型であり、その機能は現代の階段式船閘に近い。この巧妙な仕組みは、西洋で類似の船閘が用いられるより1600年以上も早く実用化されていた。国際大ダム会議の専門家はこれを高く評価し、「門は世界の船閘の父である」と称賛している。 

霊渠の開通によって、中国全土の内陸水運網が連結され、中原と嶺南を結ぶ重要な商業ルートとなった。また、南北を往来する交通の大動脈としても機能した。 

これ以降、中原の人口は運河沿いに次々と移住し、民族融合、経済発展、文化交流が加速した。 

その後、湘桂公路(湖南と広西をつなぐ道路)や湘桂鉄道が相次いで開通したことで、霊渠の水運機能は次第に低下した。しかし現在でも周辺の約6万5000ムー(約4300)の農地をかんがいしているほか、洪水防止、生態系への補水、観光などの分野で重要な役割を果たしている。 

特に近年は、その文化遺産としての価値を生かし、観光資源として新たな活力を見せている。 

ミニ知識

霊渠の建設は、中原文化が嶺南へ伝播する経路を強化した。長い歴史の中で、霊渠周辺には文化融合を物語る数多くの歴史遺産が残されている。

桂北(広西北部)の伝統民家は、中原の建築技術と桂北地域の自然環境、さらに民族文化が融合した代表例である。

建物の多くは明清代のもので、灰色のれんがと瓦、勾配屋根、馬頭壁を特徴とする。徽州建築や湖南南部の民家の特色を備える一方、チワン族やヤオ(瑶)族などの現地の建築の知恵も取り入れられている。


桂林ビーフン(米粉)は霊渠の歴史と深く結び付いた食文化の象徴であり、秦漢時代以来の中原と嶺南の食文化交流の記憶を伝えている。

伝承によれば、秦代に霊渠が開削された際、北方出身の兵士たちが南方の風土や食材に適応するため、当地の米を用いて北方の麺を模した食品を作ったことがビーフンの原型になったという。その後、1000年以上にわたる発展を経て独自の製法が形成された。

現在、桂林ビーフンの製作技術は中国の国家級無形文化遺産に登録されており、霊渠の歴史と庶民の暮らしを結ぶ文化の代表的なものとなっている。

厳関窯跡は霊渠東岸に位置し、宋代の嶺南地方を代表する民間陶磁窯跡である。

窯跡群は霊渠沿いに分布し、水運の利便性を利用して湖南広西両地域へ製品を供給した。中原の陶磁器製作技術が南方へ伝わり、現地化されたことを示す重要な実証例でもある。

主な製品は碗、皿、杯、硯などの日用品で、胎土は紫砂に近い性質を持つ。釉薬は青磁釉や月白釉を特色としている。

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