梅蘭芳と日本
劉徳有=文
梅蘭芳美貌美声の人格者
京劇界きっての女形
知名度が高いためか、それとも早くから市民権を得てそうなったのか、日本で中国人の名前が中国語読みで通っているのは、梅蘭芳だけのようで(今は変わりつつある?)、「ばいらんほう」の日本語読みではかえって通じないらしい。
六十数年前、筆者が地方から北京へ転勤になった当初、梅蘭芳氏はまだ健在で、舞台にもしばしば立ち、大いに活躍されていた。その頃、梅氏の演じた名劇『宇宙鋒』を見た記憶がいまだに鮮明に残っており、1960年の2月、前進座の一行が創立30周年記念のため中国公演に見えたとき、歓迎会で梅氏が歓迎のあいさつをされたが、通訳を仰せつかったことが、今では忘れえぬ思い出の一つとなっている。
梅蘭芳は江蘇省の人、梨園の名門に生まれ、祖父も父も有名な女形。幼少から舞台に立ち、20歳前後からすでに名優の列に加わり、天賦の美貌と美声は空前絶後の評さえあるほどだった。伝統を守りつつ、京劇の改革に専心。戯曲の主題を明確にし、役柄の形象づくりに力を入れ、優美な舞踊動作を数多く創案したが、観客や時代の要望に応え、純愛、憂国、女性の尊厳などを、絢爛、優美、毅然、優雅に表現するのに腐心し、京劇中興の名にふさわしい成果を上げて注目された。国際的にも名声を博し、19年、24年、56年と3回にわたる日本公演を果たし、その他、米国やソ連各地を巡演して京劇の存在を世界に示した功績は大きいと言えよう。
1955年10月、梅蘭芳(中央)と北京で訪中公演を行った日本の歌舞伎俳優(新華社)
さて日本との関係であるが、梅氏の日本初公演は、19年の4月から5月にかけて実現された。その頃、梅氏は中国で丁度、京劇の改良・改革に熱を上げていたが、持って行った演目は全て伝統的なものだったので、時の帝国劇場の伝統派の歌舞伎役者と観衆に大いに喜ばれた。
くだって23年9月1日、思いがけなくも隣国の日本は関東大震災に見舞われた。梅蘭芳は直ちに北京でチャリティー公演を行い、帝国劇場の修復に1万元を寄付した。当時の1万元は目も飛び出るほどの大金であった。帝国劇場の修復工事が完成した24年、日本の歌舞伎界はこぞって、梅氏の第2次訪日公演を歓迎した。言うまでもなく、公演は大成功を収め、梅氏と歌舞伎界の友好関係もいっそう強まった。
梅氏の2回目の訪日のお世話をした歌舞伎役者の一人、十三世守田勘弥はその2年後、人に託して梅氏に手紙を届け、北京を訪問し、京劇と共同公演をしたい旨の希望を伝えた。十三世守田勘弥と言えば、古風な容姿に品格を備え、古典狂言の和事を得意とし、新作や翻訳劇にも意欲を示していたことで知られていた。梅氏の絶大な協力の下、守田勘弥は26年8月20日、一行54人を引き連れて北京公演に訪れた。
梅蘭芳と守田勘弥は、「開明戯院」で3日間連続で熱演を繰り広げ、連日大入り満員で、警察が現場の秩序を維持せざるを得ないほどの盛況だった。全ての公演が終わった後、梅蘭芳は中山公園で盛大なパーティーを開いて公演の成功を祝い、日本側の一人一人に新調の中国服が贈られた。
ところが、31年「九一八事変(日本でいう「満州事変」)」が勃発するや、梅蘭芳はやむなく北京から上海に居を移し、抗日の機運を盛り上げるため、『抗金兵』や『生死の恨み』などの芝居作りと公演に精魂を傾けた。
37年7月の盧溝橋事変勃発後、日本軍は中国に対する全面的侵略戦争を開始し、程なくして上海を占領。梅氏は抗議の意思表明のため、舞台から身を引いた。占領軍はあの手この手で、梅氏を舞台に立たせようとしたが、誘惑と恐喝をはねのけ、あくまでも初志を貫いた。翌年、家族ぐるみで香港に移住してからは、家に立てこもって、絵描きに専念。41年に太平洋戦争が勃発し、香港も日本軍の手に陥った。ここでも、再度舞台に立つよう勧誘されたが、梅氏はあくまでも突っぱね、ひげを蓄えて抵抗する案を編み出した。タゴールのような長いひげでなくても、公演拒否の決め手になると考え、3日間ほどそらずにいたら、見事な口ひげになった。
45年8月、ついに抗日戦争勝利の日を迎えた。家族一同と友人が応接間に集まってお祝いをしているとき、突然、梅氏の姿が見えなくなり、皆がいぶかっているところに、梅氏が現れた。扇子で顔を半分隠していたが、目が笑っていた。
「今日は皆さんの前で、マジックをご覧に入れるとしよう」と言って、扇子をはずすと、ひげをそり落した梅氏の顔があった。梅氏には、こんな茶目っ気なところもあり、みんなが歓声を上げたのは言うまでもない。
梅氏の3回目の訪日公演は、56年の5月末から7月の半ばにかけてであった。もちろん国交正常化前で、両国の関係は不正常な状態に置かれていた。過去の歴史問題もあり、始めのうち、梅氏は日本行きにあまり気が進まなかった。周総理は梅氏に直接働き掛け、説得に乗り出した。
「日本軍国主義による侵略の被害を受けたのは、中国人民だけでなく、日本人民も苦しめられたのです。今度の訪日公演は日本人民のためであり、中日両国人民の友情を発展させるためです。両国人民が末永く友好的に付き合っていけば、あのような悲劇の再発も防げるのです」
八十数人からなる京劇団は行く先々で大歓迎を受け、公演は大きな成功を収めた。『貴妃酔酒』の舞台では、玄宗皇帝の愛を一身に集めていた楊貴妃が一時疎まれ、やるせない気持ちを酒に紛らわす酔態を心憎いまでに演じきった梅氏の名演技は、今も語り継がれている。
1956年、日本で『貴妃酔酒』を演じた梅蘭芳(新華社)
一行が大阪に到着したとき、今井さんという女性との面会がセットされていた。それにはこんな心温まるエピソードがある。
24年の2回目の訪日の際、食あたりでお腹を壊した梅氏は、今井という日本人のお医者さんに診てもらい、全快した。謝礼を受け取らないので、何かお好きなものはと尋ねると、「景泰藍(七宝焼き)のカフスボタン」という返事だった。その後戦争で連絡が途絶え、お贈りすることができないでいたが、今度日本へ来るとき、「カフスボタン」を携え、今井先生を訪ねてお礼をしようと思っていた。ところが、梅氏の前に現れたのは、今井先生ではなく、娘さんだった。今井先生は13年前にすでに亡くなられたことを知り、梅氏はお宅を訪ねて、霊前にぬかずき、「カフスボタン」をお供えした。
梅氏の人格者たるゆえんである。