花柳千代と『大敦煌』
劉徳有=文
敦煌の壁画生かした舞踊劇
花柳千代と寿楽の世界
敦煌と言えば、神秘感に伴い莫高窟の壁画を連想する人が多いのではなかろうか。
その壁画を舞踊劇にした日本人がいる。舞踊家の花柳千代氏である。
花柳千代氏の中国初訪問は、1985年だった。そのとき敦煌で得たインスピレーションをもとに、日本の伝統舞踊の技法を駆使して、舞劇『河西回廊』を創作。氏自らも舞台に立ち、各方面からの注目を浴びて、第18回舞踊批評家協会賞を受賞されたと聞いている。
幸いにも、その後、花柳先生のご招待で東京に伺い、国立劇場で催された「花柳千代傘寿の会」で、三笠宮殿下はじめ遠山敦子先生ご夫妻とご一緒に、『河西回廊』を鑑賞する光栄に浴することができた。舞台に広がる広大な砂漠、さまざまな意匠を凝らした群舞などが印象的だったが、フィナーレで展開された場面――奈良の法隆寺と敦煌の両者のイメージが重なり、中国から渡来した僧たちが山門から伝わってくる松風の音と琵琶の奏でる美しい音色を耳にしながら、西域に、そして故郷の敦煌に思いを馳せる情景が今でも目の前に浮かんでくる。
この『河西回廊』を基礎に、花柳千代氏は敦煌壁画『張議潮出行図』を題材に舞劇『大敦煌』を創作され、94年3月に日本で初公演。97年8月の中国公演の後、9月に東京の国立劇場で「凱旋公演」が行われた。
舞劇『大敦煌』中国公演のパンフレット(写真・籠川可奈子/人民中国)
幕が開き、風砂の中、一人の若い画僧が敦煌に向かう。月の光に照らされた鳴沙山にたどり着き、筆を執って、西域浄土と世間の善と悪の故事を描き始める……。
――太守の治めるこの地方の人々の暮らしは、平和で安定していた。そこへある日、盗賊がやって来て、その暮らしを破壊する。太守は国の安定のため、盗賊の征伐を決意し、自ら兵を率いて出陣する。太守夫人は楼上に立ち、出陣の将兵たちの勝利を祈る。敦煌軍は連日、過酷な熱砂の中を進軍し、疲労困憊、多くの犠牲者を出した。ある夜、盗賊は闇に乗じて奇襲をかけ、敦煌軍と一戦を交えた。勇敢で優れた敦煌軍の隊長が不幸にも敵の矢に当たって倒れた。激戦の末、盗賊の頭目が捕虜になる。死刑となるはずだが、太守は平和を目指すため、処刑執行の兵士を制止。盗賊の頭目は感激し、手下を伴い敦煌軍に投降する。伝令の勝利の知らせを聞き、城内の民衆は喜びのあまり踊りだし、凱旋の将兵たちを歓迎。夫人も太守が無事に帰り、敦煌に再び平和が訪れたことを喜び、感涙した。正義を代表する太守と夫人が邪悪に打ち勝ち、盗賊たちは敦煌軍に帰順する、というのが劇のあらましである。
劇中で、花柳千代氏が夫人に扮し、人間国宝の花柳寿楽氏が太守を演じた。立ち回りの激しい兵士役は、中国戯曲学院の学生たちが受け持った。中日合作劇ともいうべき『大敦煌』の魅力的な舞台は、人類の平和と愛と幸せを強くアピールして広く観衆の好評を博したのは言うまでもない。
敦煌・莫高窟(新華社)
『大敦煌』は、ある意味で全く新しい形の芸術であると言えよう。「伎楽の女」を演じた女性たちは和服を身に着け、「敦煌伎楽の舞」や「飛天の舞」、琵琶を逆さにして弾く「反弾琵琶の舞」など、斬新な美の雰囲気を感じさせる。特に、太守夫人役の花柳千代氏と太守役の花柳寿楽氏の演技は、観客に深い印象を残した。いずれも和服姿だが、何ら違和感がない。太守の出陣の時、高台から見送る夫人が胸に当てたあのかすかに震える手、このちょっとした動きから、どんなにか太守の安否を気遣っているかが分かる。太守を演じた80歳近い寿楽氏は、人間国宝の名に恥じない演技で、舞台の上ではつらつとした元気な姿を見せ、「画竜点睛」の役割を果たした。寿楽氏は、「京劇の俳優たちは力いっぱい『動』を主に踊ったが、われわれは日本舞踊の特徴である『静』で対応した」と語った。出陣の場面で、寿楽氏と千代氏の演技は、誇張も激しさもないが、手に持った扇子の骨の間から夫人が秋波を送って愛情を伝え、二人の間の変わらぬ愛と互いの思いやりを表現するところなぞ実に芸が細かく、印象的であった。
この「凱旋公演」に、私ども夫妻も招待を受け、鑑賞する機会に恵まれた。三笠宮崇仁親王殿下と妃殿下も来られ、休憩時間に、貴賓専用の喫茶室「羽衣」でお茶を飲むことになって、殿下ご夫妻に紹介された。
あいさつの後、三笠宮殿下は進んで『大敦煌』の感想を述べられた。「京劇の動作と日本舞踊が混ざり合って一つになり、とても調和がとれている。このような交流はとても良いと思う」と述べられた後、「中国の俳優たちは、どのようにして養成されるのですか?」と問われ、私がそれに答えると、「梅蘭芳は日本に来られたことがありますね」「はい。あれは1956年でした。中国に強い関心がおありのようですが、殿下が著名な東方学の学者であられることを存じ上げています」と言うと、「私は元来、中近東を研究していましたが、その後、中国文化がどのようにしてシルクロードを通って日本に伝わったかを研究するようになりました。そのため、中国の歴史と日本の歴史を研究したのです。私は今年83歳になりますが、若いときはよく舞踊を踊りました。民間舞踊やスクエアダンスですが、アイスダンスもやったことがあり、私の最も得意だったものです。70歳になってからは日本舞踊を踊り始めました。日本人は日本舞踊が一番合っているように思います」
三笠宮殿下が語られたことは、私にとって初耳のことばかりだった。殿下の礼儀正しさと率直さは、私に深い印象を残してくださった。開演のベルが鳴り、握手をしてお別れした。
『大敦煌』公演の成功は花柳千代氏の情熱、粘り強さ、努力と切り離しては語れない。公演が終わって、カーテンコールに立った氏の姿を見て、いろいろなことが頭をよぎった。小学館出版の『日本大百科全書』の「日本舞踊」の項に「花柳千代は『日本舞踊の基礎』の本を著し、基本練習の講習会を催している」と記されている。日本の伝統舞踊の発展と理論構成、小中学生への普及や中日文化交流に貢献をしてこられた舞踊家・花柳千代氏に対し、襟を正さずにはいられなかった。
結びに、漢俳を2首。
風雲”大敦煌“, 風雲巻き起こる『大敦煌』
千代多姿寿楽昂, 千代のあでやかな舞姿 寿楽は意気軒高
美誉満扶桑。 誉れは日本の津々浦々に
すでに故人になられた花柳寿楽氏は生前お酒が好きだった。特に老酒をたしなまれた。はるか北京より氏をしのんで。
渾如故友帰, 故人・寿楽 帰するが如く
人間国宝古来稀, 人間国宝 古来稀なり
杯映寿楽姿。 杯に映る寿楽のお姿