陶淵明·菊·酒
劉徳有=文
陶淵明東籬下に摘む菊の花
悠然と見る蒼き南山
陶淵明(劉徳有氏提供)
陶淵明の話に入る前にまず、若いころ筆者が通訳で中国の文豪・郭沫若氏に随行して日本を訪問したときのエピソードを一つ——
それは六十数年前の1955年12月のことだった。京都で、郭沫若、貝塚茂樹、桑原武夫の3氏による鼎談が、料亭「つる家」の一室で行われた。
貝塚氏は京都大学人文科学研究所教授で中国古代史研究者、郭氏とは古くからの付き合い。同研究所の桑原教授はフランス文学者。中国の古典、特に漢詩に造詣が深く、半年ほど前北京を訪れたばかりで、唐の詩人・元稹や白居易の詩について郭氏と話し合い、通訳を仰せつかったことがある。このように、お二人共、郭氏とは古いおなじみで、この夜郭氏を料亭に招き、郭氏も大変ご機嫌で、ほとんど通訳抜きで18年ぶりに日本語を使った。
鼎談の後、そばが出た。そば好きの郭氏のため、特に関西風のそばが用意された。同じそばでも関西と関東では微妙な違いがあるらしい。そこへ、料亭の女将が色紙を持ってきて揮毫を求めた。これは日本の習慣のようだが、こういうことに出くわすたびに、飲食業の主の眼力に感心させられる。名人を絶対に見逃さず、中国でいう「墨宝(有名人の筆跡)」を残せというわけだ。郭氏は欣然と筆を執った。
転瞬人将老 瞬く間に 人老いんとす
今來如返家 今来ること 家に 帰るがごとし
餉我蕎麦麺 われに餉る蕎麦麺
飲我三杯茶 われに飲ます三杯の茶
桑原氏も座興で別の色紙に菊の花を描き、陶淵明の詩句「悠然見南山」を書き添えて、「これでいいですか」と郭氏に尋ねた。「いいですよ」と郭氏。
日本人が陶淵明の詩を好んでいることは前から聞いていた。たぶん、漢詩を研究しておられる桑原氏は菊を描きながら、「採菊東籬下 悠然見南山」の詩句を思い出したのだろう。
ご存知のように、詩句の出所は陶淵明の『飲酒 其五』である。その一節を、異色の翻訳者・松下緑氏の和訳で見てみよう(表記はそのまま)。
結廬在人境 イオリハ里ノナカナレド
而無車馬喧 車馬ノ往キ来ハ繁カラズ
問君何能爾 ナニユエシカリト友ノ問ウ
心遠地自偏 俗事捨テレバ世モシズカ
採菊東籬下 垣根ニ咲イタ菊ヲ折リ
悠然見南山 廬山ナガメテココロ足ル
山気日夕佳 日暮レノ山ニ霧立チテ
飛鳥相與還 鳥ハツレダチ帰リユク
……
これを現代語訳に直してみると――
隠遁者は山奥に住まいをつくるが、自分は騒がしい人里に庵を構えた。だが、うるさい役人どもの車馬の音は聞こえてこない。
よくそんなことがありうるもんだね、と人は言う。それも名利の念から遠ざかっているからで、おのずと村はずれのように辺ぴとなるものさ。
読書に疲れて庭先をそぞろ歩き、東隣りの垣根の下に咲いている菊を一枝手折り、ひょいと頭を上げた拍子に、悠揚迫らぬ姿の南山=廬山が目に映り、私はそれをゆったりとした気持ちで眺めている。
日暮れの山のたたずまいが展開する景色は素晴らしく、空飛ぶ鳥は夕日を浴びつつ打ちつれて塒へと急ぐ……
詩中の「悠然見南山」の「悠然」は、南山と詩人の両方にかかっていると解釈するのが自然だろう。
陶淵明(365~427年)は李白や杜甫以前の晋の時代の代表的詩人で、生まれ故郷は、潯陽柴桑、今の江西省廬山の西南。その頃は動乱が長く続き、陶淵明は29歳のとき初めて仕官。30代を挟んで、十数年役人として東西に奔走したが、地方政権の文官や武官になったりやめたりを繰り返した。41歳のとき、わずか80余日で彭沢県令(県知事)を辞したが、その際、「吾、五斗米の為に腰を折ること能わず」と言ったといわれている。わずかな報酬のために上役にペコペコできるかとたんかを切ったというのだ。それ以来、一度も官職に就くことはなかった。松下緑氏の言葉を借りると、「陶淵明という人は、ビジネスマンの視点からすれば、組織人として落第生ということだろう」
東晋が滅び、南朝・劉宋の時代になって朝廷から召されても仕えず、詩酒を楽しみ、田園の風物を詠じ、隠遁生活を貫き通して、63歳で没した。
先に引用した陶淵明の詩は、酒には触れていないものの、そこから淵明の田園生活の一端をうかがい知ることができる。封建時代に、自ら鍬をとって畑を耕し、身をもって労働を経験しつつ、それを歌い上げた詩人はまれであろう。田園は陶淵明にとって、「己のからみついてくる社会のきずなをふりほどき、人間本来の姿に立ちかえりうる世界」(一海知義語)であったのだろう。
陶淵明といえば、酒を連想する向きも多いかと思う。それもそのはず、陶淵明全集を初めてまとめた梁の蕭統(501~531年)でさえも、淵明の詩に「篇篇酒あり」、つまりどの詩にも酒が詠われていると序文に書いたほどである。淵明の酒は、ほろ酔い程度で、退廃の匂いがなく、その飲みっぷりもむしろ平静であったようだ。
酒の話で思い出したのが、細川護熙元首相がサイン入りで贈ってくださった著作『中国詩心を旅する』の中の一節である。引用して本文の結びとしたい。
「わたしは淵明や李白のような飲兵衛ではないが、淵明の『飲酒』詩二十首は最も好きな漢詩のひとつだ。(中略)やや冷涼を帯びた夕方の空気に誘われて南山(廬山)の麓の畝道をそぞろ歩いていると、傍らに一叢の黄菊があった。思わず立ち止まったわたしに、近くの農家の人とおぼしき中年の女性が声をかけた。『飲酒啊』(お酒を飲むの?)」
「折から陽はようやく西に沈もうとしていたが、廬山の東のなお青みを残す空には白い月がかかり、相ともに帰る伴侶もいない一羽の鳥が山容を横切って飛んだ。おそらく、そのときわたしが片手に持っていたコーヒーの紙コップと月が、彼女に酒を連想させたのだろう。普通に耳にする『喝酒』ではなく『飲酒』という言葉であったことに、鄙びた中にも古雅な響きがあるように見えた」
「かつて白楽天は廬山の近くに陶という姓の人がかなり残り住む村があることを知り、淵明を偲んだという。その女性の姓は訊きそびれたが、陶姓であれなんであれ、彼女のことばのなかにこそ陶淵明の世界が生きていた」
細川護煕元首相から筆者に贈られた『中国詩心を旅する』(劉徳有氏提供)