中国共産党創立100周年——初心と使命を忘れず
劉徳有=文
中国の民を率いる共産党
生誕百年初心忘れず
中国共産党は、今年——2021年の7月(注)創立100周年という大きな節目の年を迎えた。
100年前の中国はといえば、外国の列強にさいなまれ、国内は各軍閥に分割・支配されて、人民大衆は屈辱に満ちたどん底の生活を強いられるという惨めで、貧しい立ち遅れた国であった。
そんな中国に、1917年のロシアの社会主義革命――十月革命の勝利が与えた影響は大きく、その辺の事情について論じた毛主席の言葉を、少し長いが引用してみよう。
「1840年のアヘン戦争に敗れたときから、中国の先進的な人々は、非常な苦労を重ねて、西方諸国に真理を求めた」。「そのころ、進歩を求める中国人は、西方の新しい学問に関するものならどんな書物でも読んだ。日本、英国、米国、フランス、ドイツに派遣された留学生の多いことは驚くばかりであった」。「新学を学んだ人たちは、長い年月の間に、それらのものでけっこう中国は救われるという信念を持つようになった」。「国を救うには維新を行うほかなく、維新を行うには外国に学ぶほかない、というわけである。そのころの外国では西方資本主義だけが進歩的だった」。「日本人は西方から学んで効果を収めていたので、中国人も日本人から学ぼうと考えた」。だが、「帝国主義の侵略は西方に学ぼうとする中国人の迷夢を打ち破った。ふしぎなことだ、なぜ先生はいつも生徒を侵略するのか。中国人は西方からたくさんのものを学んだが、それは通用しなかったし、理想はいつも実現できなかった」。「国の状態は日に日に悪化し、人びとは生きていけない状態に置かれた。疑問が生まれ、増大し、発展していった。ロシア人が十月革命をやって、世界最初の社会主義の国家を打ち立てた」。「このとき、ほかならぬこのとき、中国人には、思想から生活まで、全く新しい時代が初めて現れた」。十月革命前に、中国人民はマルクス、エンゲルスを知らなかったが、「十月革命の砲声がとどろいて、われわれにマルクス・レーニン主義が送り届けられた」。
この言葉は、十月革命の影響の大きさを強調しての表現だと思われるが、実際状況は、マルクスの著作は早くから日本を介して、いろんな形で中国に断片的に紹介されていた。戦後、郭沫若氏が日本を訪れた際、福岡で学者の質問に答えて次のように語ったのを今でも記憶している。
「中国人民がマルクス主義と接触し、マルクス主義を知ったのは、貴国の学者の紹介のおかげである。1903年前後、福井準造氏の『近世社会主義』が(趙必振によって)中国語に翻訳され、中国に紹介された。中国人がマルクスの科学的社会主義と接触したのはこれが初めてである」
マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の中国語訳は、1908年1月3日付の『天義報』に掲載された『宣言』の第一章の翻訳が初めてで、これは民鳴氏によって日本語から翻訳されたものである。全訳が出版されたのは、12年後の1920年であった。翻訳者は早稲田大学や中央大学に留学した陳望道氏。
陳望道氏が翻訳した『共産党宣言』(第二刷)(写真・劉徳有氏提供)
陳氏は1919年6月に帰国後、翌年上海に赴き、当地の共産主義グループ主宰の内部刊行物『共産党』の編集長を務めていたが、その頃、先駆者の陳独秀と李大釗の両氏が共産主義思想を中国に広めるため、『共産党宣言』の一刻も早い全訳出版の重要性を考慮し、日本語と英語に明るい陳望道氏に翻訳の話を持ち掛けた。陳氏は喜んで引き受け、人づてに手に入れた日本語版と、陳独秀氏が北京図書館から借りてきた英語版を携えて、官憲に発見されないよう秘密裏に郷里の浙江省義烏県の農村に帰り、缶詰の状態で、夜に日をついで翻訳に取り組んだ。この仕事が完成したのは、この年の4月下旬で、出版は8月。これによって、『共産党宣言』の全訳が中国で出版され、表紙にマルクスの写真が初めて使われた。印刷と発行所は「社会主義研究社」。印刷部数は1000部余りだったが、数日中に売り切れ、直ちに版を重ねて読者の要望に応えねばならない状況だった。『共産党宣言』の全訳の出版が当時の中国思想界に大きな影響を与えたのは言うまでもない。
こうした状況などを背景に、1920年前後に、上海や北京、武昌、済南、長沙、広州などの地に、グループの形で中国共産党の初期の組織づくりが始められた。また、海外では東京やパリの中国人留学生の間にも共産主義グループが誕生し、陳独秀氏が書記を務める上海の共産主義グループが中心になって、各地の組織と連絡を取り合っていた。
1921年の6月、正式に中国共産党を成立するよう、コミンテルンから提案があり、7月23日に、毛沢東や董必武、李達ら13人の代表が、北京はじめ中国各地や東京から上海に集まり、中国共産党の第1回全国代表大会が秘密裏に開かれた。会場は、上海市盧湾区望志路106号にある李漢俊という代表の兄の住家だった。しかし、どこで漏れたのか、会の途中で、フランス租界の巡査のスパイが会場に入って来るというハプニングが起こった。危険を感じた代表たちは李達夫人の案内で、汽車を利用して浙江省嘉興市に移転し、南湖で待機していた遊覧船に乗り込んで、31日まで会を継続し、党の綱領と規約などを採択して、中国共産党の成立を見るに至った。党の書記には、当時社会的に影響力のあった陳独秀氏が選出された。
上海の旧フランス租界にある第1回党大会の会場跡
いつぞや嘉興市を訪れたとき、南湖に浮かぶあの由緒ある「赤色遊覧船」を参観する機会に恵まれ、下手を承知で、長短句の「詞」を作った。
遊舫,遊舫, 遊覧船 遊覧船
承載神州希望, 中国の希望を載せて征く
初心不改克難, 初心忘れず艱難困苦もなんのその
人民十億夢圓。 十億の民の夢ぞかなう
圓夢,圓夢, 夢は正夢 夢は正夢
平地騰龍舞鳳。 大地から翔びたつ竜 舞い上がる鳳
遊覧船上の第1回党大会から今日まで、丸々100年。中国共産党は13人の代表、50人余りの党員から出発して、今では党員総数9000万人を突破。この100年間、さまざまな困難を乗り越えて、第1次、第2次国共内戦と抗日戦争に勝利し、第3次国共内戦を経て、国民党の擁する800万の軍隊を打ち負かし、結党28年後の1949年10月1日に、旧政権に代わる人民の新政権——中華人民共和国を打ち立てた。
嘉興市の南湖に浮かぶ会議遊覧船(複製)(写真・劉徳有氏提供)
新中国は共産党の指導の下、マルクス主義の中国化によって今や自国の実情に適した特色ある発展の道を探し当て、すでに国内総生産(GDP)世界第2位の強国となり、世界を舞台に目覚ましい活躍を続け、注目を集めている。
社会主義建設の新時代に入った中国人民は、習近平国家主席が指摘するように、あくまでも初心を忘れず、使命感を胸に、中華民族復興の理想実現と14億の民の生活向上と幸福、世界の平和のため、鋭意努力中である。
(注 中国共産党の第1回全国代表大会の開催日は1921年7月23日であるが、過去の厳しい情勢下で資料不備のため、41年になって党の創立記念日を7月1日と決定。その後、7月23日と判明。)