忘れえぬ桑田家の手料理
劉徳有=文
桑田家の手料理の味忘れまじ
語る思い出いとも懐かし
いきなり桑田家といっても、ピンとこないと思うので、まずその辺から話を進めていきたい。ここで取り上げた桑田家のご主人は筆者の古い友人・桑田弘一郎氏。筆者と同じジャーナリスト出身、5歳年上の先輩で、中日国交正常化以前からの知り合い。かれこれ60年に及ぶ長い付き合いである。
桑田弘一郎氏との初対面は、1959年10月、自民党の長老・松村謙三氏の第1次訪中のときである。桑田氏は、随行の日本人記者団の一員だった。朝日新聞社政治部に所属し、松村氏担当だった。当時、筆者は通訳の関係で、一行の訪中の接待に関わっていた。
桑田弘一郎氏(左)と筆者(写真・劉徳有氏提供)
松村氏の中国訪問は決して偶然ではなく、当時の中日関係と切り離せず、また後の両国の常駐記者の交換とも大きく関わっていた。
戦後以来、中日両国の民間貿易は途絶えていたが、52年の夏、第1次中日民間貿易協定が北京で結ばれて以後、回復し、徐々に伸び始めた。しかし、残念なことに、58年4月、岸内閣の下、長崎で暴徒による中国国旗侮辱事件が起こり、両国の間にせっかく構築された往来のパイプがほとんど閉ざされるという厳しい状態となった。この二進も三進もいかない状態を憂慮し、打開するため、日本の心ある政治家が動き出し、石橋湛山元首相に続いて、松村謙三氏が周恩来総理の招きで訪中した。周総理と松村氏の4度にわたる会談の通訳を、筆者が仰せ付かった。松村氏の訪中の成果を土台に、62年11月に、「中日総合貿易」——通称LT貿易が成立し、さらに64年4月、松村氏は3度目の訪中を果たし、北京で周総理と5時間にわたる政治会談が行なわれ、二つの問題が解決された。一つは、LT貿易事務所の相互設置。いま一つは常駐記者の相互交換。これによって、中日関係は民間往来から、半官半民の段階へと実質的な第一歩が踏み出され、後の中日国交回復の重要な礎が築かれた。特に常駐記者の相互派遣についていえば、今では当たり前のことになっているが、両国関係がまだ正常化されていない当時では、それはそれは大変なことであった。
この協定によって、筆者は64年の9月、中国駐日記者の一員として、東京に派遣され、以来約15年間日本でお世話になった。当時の厳しい内外の情勢を反映して、記者活動にいろいろ苦労も多かったが、中でも三度の食事が大問題だった。東京に着任したばかりの頃は、外食をすることが度々だった。それも、タクシーで毎日少なくとも一度、多くて二度新橋の中国料理店に通ったのだが、あまりにも面倒なので、アパートの1階にあるスナックをよく利用した。カレーライス、ライスカレーの毎日で、カレー攻めに閉口した。
そんなある日、常々日本の政局の動きを懇切丁寧に解説してくださる桑田弘一郎氏が、思いがけなく、夕飯をご一緒しませんかとご自宅へ誘ってくださった。中国記者団のメンバーは合計7人、全て男性で、単身赴任である。日本人の家庭訪問は初めての経験。願ってもないことだったので、みんな大喜びだった。しかし、全員が大挙して押し掛けるわけにもいかず、相談の結果、7人のうち奇しくも姓が同じ「劉」——『文匯報』の劉延州、『大公報』の劉宗孟、『光明日報』の私・劉徳有の3人が選ばれた。この3人は、人呼んで「三劉」。
桑田氏のお宅は、東京都大田区北千束にあった。東京に来て初めて目にした日本人家庭の居間。畳の上に食卓が置かれ、客の座る場所に、桑田氏が59年に松村ミッションに随行して中国へ取材に来られたとき、南方で買い求めた毛皮が敷かれてあった。初めて見る床の間も珍しかった。その日、ご主人はもちろんのこと、奥様も大変喜んでくださり、心のこもったおもてなしをしてくださった。出されたお料理は全て奥様の手製で、準備が大変だったに違いない。全て珍しく、おいしかったが、煮物とみそ汁が特に印象的だった。そして何よりも単身赴任のわれわれ3人が異国の地で久しぶりに家庭のぬくもりを感じたのはありがたかった。
桑田氏のご招待は65年のことだから、もうすでに半世紀の月日が過ぎたが、いまだに忘れることができない。筆者が東京を離任したのは78年の6月。この年の4月、桑田氏は朝日新聞大阪本社の編集局長に抜てきされ、80年代に朝日新聞東京本社の代表(取締役)、テレビ朝日社長(92年日本民間放送連盟会長)などを歴任されたが、長い間、日本の政界と密接な関係を保ってこられた。
ここで、桑田氏が書かれた回想録の政界人にまつわるエピソードを一つ——
「池田内閣が昭和35年7月に発足して、しばらく経った頃だと思う。たしか夏の暑い日で、土曜日の夕方だったと記憶している。池田首相は箱根の別邸へ静養に出かけ、永田町界隈は閑散とした空気に包まれていた。当時首相官邸詰めの政治記者だった私は久しぶりにのんびりした気分にひたり、虎ノ門の近くにある本屋に立ち寄った。その頃、私は推理小説に凝っていた。何かいいものはないかと物色していると、いきなりうしろから私の両肩を手でつかみ、ぐっと押さえたものがいる。びっくりして振り向くと、それは大平官房長官(当時)だった。『えらく高級なものを読んでるじゃないか。さすがグレート朝日だねェ』」
「大平一流の諧謔である。普通ならいやみたっぷりの皮肉に聞こえるこんな表現も、大平氏のあの笑顔、あの口調でいわれると、全く憎めない気分になってしまう。私もつい調子に乗ってしまった。『グレート大平が、鬼(池田首相の意)の居ぬ間の洗濯を本屋でまにあわせようというのも、あまりパッとしませんね』」
「ハッハッハッ……。こりゃ参った。よし、それじゃ今夜はうまいものを食おう。ご馳走するから付き合えよ」
桑田氏はいま悠々自適の老後生活を楽しんでおられ、時々中国旅行もされている。2019年11月に、日中未来の会のメンバーとして北京においでになられた際、会の代表の南村志郎氏とお二人で、私ども夫妻を長富宮飯店の「桜」に招き、寿司をごちそうしてくださった。
席上、たまたま60年近くも前、初めて日本人の家庭——桑田家で日本食をごちそうになった話になり、小生があらかじめ筆で書いた「七言絶句」らしきものを記念に桑田氏にお贈りした。
轉瞬時経一甲子, 瞬く間に過ぎし六十年
当年家宴款新朋。 お宅に招かれ
手料理のおもてなし
賢嫂裏外忙烹饪, 奥様は大わらわ
買い物にお惣菜づくり
永記桑兄摯友情。 永く留めん吾が記憶
桑田兄のあつき友情
他人にお見せするほどのものでない下手な字にもかかわらず、桑田氏は涙を流して喜んでくださった。
1964年9月29日、羽田空港に到着した第1陣の中国駐日常駐記者。右端が筆者
(写真・劉徳有氏提供)