姑蘇城外寒山寺
劉徳有=文
年の瀬に馳せる心のふるさとぞ
寒山寺にて聴く夜半の鐘
日本で広く親しまれている漢詩はといえば、「月落ち烏啼いて」の名句で知られる中唐の詩人・張継の七言絶句『楓橋夜泊』であろう。
月落烏啼霜満天, 月落ち 烏啼いて 霜天に満つ
江楓漁火対愁眠。 江楓の漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺, 姑蘇城外 寒山寺
夜半鐘声到客船。 夜半の鐘声 客船に到る
旅愁も手伝ってか、船の中でうつらうつらしているうちに、月は西に傾き、烏が鳴いて、霜の気が空いっぱいに満ち、暁かと錯覚するような寒さが体に染み込んで、ふと目を覚ます。船窓から見やれば、紅葉した川辺の楓、明々と輝く漁火が、浅い眠りの中、目の前に鮮やかに浮かぶ。折しも、船まで聞こえてくる蘇州城外の寒山寺の鐘の音。なんとこれは夜半を告げる鐘ではないか。
寒山寺(cnsphoto)
作者の張継は襄州(湖北省襄陽県)の人。生年と没年は詳らかではないが、およそ紀元750年頃の人と推定される。玄宗皇帝の天宝12(753)年の進士。代宗の大暦年間(766~779年)に大理司直、塩鉄判官などを歴任したという説がある。
さて、この詩を書いた背景であるが、これにはいろんな説がある。
一つは官吏登用試験失敗説。張継は若い時から秀才の誉れがあり、年頃で美人の王暁薇と恋仲に陥るが、大金持ちの両親は、張青年の家庭が裕福でないことを理由に、首を縦に振らない。娘がどうしてもと言うので、両親も仕方なく条件付きで折れる。条件とは張継が官吏登用試験で進士に及第すること。それがかなえば、嫁いでもよいということになった。張継の実力からいえば、及第には問題はないのだが、首都・長安に赴いて試験を受けた結果、見事に落第。これでは、親と恋人に会わす顔がなく、悩み抜いた挙句、襄州へは直接帰らず、蘇州へと向かった。気分を紛らわすため、蘇州に着いた翌日、船を雇い、寒山寺の近くの楓橋のたもとに停泊し、例の名詩をものしたと言い伝えられている。その後、張継は長安に引き返し、進士の試験に及第するが、恋人は待ちきれず、すでに人妻になっていた。張継は恋には失敗したが、人口に膾炙する傑作を後世に残したのがこの『楓橋夜泊』。
いま一つは、「安史の乱」避難説。歴史上、最盛期を迎えた唐代もやがて社会の矛盾が激化し、楊貴妃との愛に溺れた玄宗の下で次第に危機が顕在化した。東北の節度使・安禄山は史思明と組んで天宝14年、15万の大軍を率いて、楊貴妃の一族で財政を握る権臣・楊国忠討伐を名目に進撃を開始、太平の世に慣れた官軍はたちまち瓦解し、洛陽に続いて長安が占領され、玄宗皇帝は慌てて四川に逃れる。いわゆる「安史の乱」である。当時、江南一帯は比較的安定していたので、多くの文士は江南の水郷——江蘇、浙江に避難したが、その中に張継もいたといわれる。さすらいの旅を続け、憂いに沈む張継が蘇州で書いたのがこの『楓橋夜泊』であるとか。
ところで、中国でも日本でもこの詩ほど異説のある詩も珍しい。
まず「月落ち烏啼いて」だが、「烏は夜鳴かない」「いや、鳴く」と水掛け論になっていたが、どうやら「鳴く」でケリがついたらしい。また、「烏啼」については、「烏啼山」という山があって、「月が烏啼山に沈む」と解釈する向きがあり、長い間日本で「月は烏啼に落ち」とする説がくすぶっていたが、蘇州にはもともと「烏啼山」という山はない。詩が有名になってから付けられたものだろう。
2句目の「江楓漁火」は、「江村漁火」という説もあるが、どちらが正しいか。これについても諸説紛々。清の学者・兪樾の考証によれば、「江村」が正しいとされている。日本古来の謡曲『三井寺』『道成寺』などでも「江村」と引用されており、これはあるいは古いテキストによるものかもしれないが、今は「江楓」で通っている。
「夜半の鐘声」についても、宋の有名な文学者・欧陽修は寺の鐘は夜中に撞かないものだと力説。しかし、これは間違いで、唐の時代から、寺が夜に鐘を撞いていた。その証拠に、白楽天は「新秋松影下、半夜鐘声後」と歌っており、ほかにも多くの唐の詩人が夜中に寺が鐘を撞く詩句を残している。
このように、張継の詩作『楓橋夜泊』によって、寒山寺が天下にその名を馳せるようになり、また寒山寺によって、この詩が広く知られるようになった。
「姑蘇城外寒山寺」の「姑蘇」は蘇州の別名。姑蘇という名前は、蘇州西南にある山――姑蘇山に由来している。山上の姑蘇台は、春秋時代の末期、呉王夫差が越の勾践を敗って得た美人西施を置くために築かれたものと伝えられている。それはさておき、寒山寺は蘇州城の西5㌔ほどのところにあり、南北朝のころに建立され、初めは「妙利普明塔院」と名付けられたが、唐代に到り、寺の住職が詩人で有名な高僧・寒山と拾得になってから、寒山寺と改められた。
筆者が長い間、日本関係の仕事をする中で感じたのだが、日本人は張継の詩「月落ち烏啼いて」をこよなく愛している。そして暗誦できる人も多い。寒山寺の境内に建つ兪樾の書いたこの詩の石碑の拓本を軸にして床の間に掛けている家庭も珍しくない。聞くところによれば、中学か高校の教科書にもこの詩が収録されているとか。中国にいて目にする情景だが、毎年大みそかに日本から大勢の人が除夜の鐘、つまり「夜半の鐘声」を聞きに蘇州の寒山寺へやって来る。また、「寒山寺の鐘声」に涙を流す人もザラにいるそうだ。それはなぜだろうか?
寒山寺に2007年に建てられた巨大な石碑。正面に『楓橋夜泊』が彫られている(cnsphoto)
西安在住の日本問題研究者・候仁鋒氏の見解によると、詩人の張継が一度科挙の試験に失敗し、蘇州に来て目にした情景から受けた感じと関係があり、日本文学の精髄と日本人の美意識である「物の哀れ」や「わび」「さび」と一脈相通ずるものがあるからだと見ているようだ。
「わび」と「さび」は、茶道と俳諧が追求する最高の審美の世界であるそうだが、その根底に寂寥感があると物の本に書いてあった。
「物の哀れ」「わび」「さび」は、確かに日本人の伝統的な美意識だが、絶対化できないのではないか。それは日本的であると同時に中国人の生活感情や情緒、文学の鑑賞習慣とも相通ずるものがあるか、もしくは似ており、中には同じであるものもあるようだ。人間は、一定の時間と空間に存在するものであり、時空に対する感受性や情緒などは人類の普遍的な現象ではなかろうか。