漢俳よもやま話(9)大平正芳氏と「温故知新」
今年は中日関係にとって、節目の年である。国交正常化45周年ということもあって、日本側の立役者・田中角栄氏を思い起こしたが、氏を補佐した大平正芳外相(当時)のことも忘れられない。
大平氏について、一番印象深いのは何といっても、1972年の中日国交回復前後のことだ。
64年の秋、私は第1 陣の中国記者として日本に派遣され、以来15年間取材活動に携わった。中日国交回復の全過程もつぶさに取材し、その中で果たされた大平正芳氏の重要な役割を身に染みて感じ取ることができた。
72年、佐藤首相が退陣に追いやられ、7月に自民党総裁選が行われた。
これに合わせて、田中、大平、三木、中曽根の「四派連合」が結成されたが、大平氏から直接「中国問題では、自分は田中氏とは一心同体だ」と言われたのを聞いたことがあるので、「四派連合」ができた直後に、中日関係について大平氏の考えをじかに取材したいと思い、インタビューを申し込んだ。すぐにオーケーが出て、東京虎ノ門の近くにある「自転車会館」に来るよう言われた。大平派の「宏池会」の事務所のある場所だ。大平氏に会い、いくつか質問を試みたが、一つ一つ丁寧に答えてくれた。当時中国の記者として、最大の関心事は、それまでの日本政府が認めていたいわゆる「日台条約」を破棄する用意があるのかどうかということだったので、そのことについて尋ねたところ、大平氏は慎重に言葉を選びながら「この問題はネゴシエーションを通じて解決できると信じます」と答えられた。特別なニュアンスをほのめかす意味もあってか、「交渉」とか「話し合い」という言葉を使わずに、わざと外来語の「ネゴシエーション」を選んで話された点が印象的だった。
この取材を通じて、大平氏は言葉でははっきり言わなかったが、すでに成算ができていて、真しん摯しな交渉によって双方とも受け入れられる方法が見つかり、台湾問題は日中国交正常化の妨げにはなり得ないと考えていることを感じ取った。
自民党総裁選で、田中角栄氏が勝利し、組閣のとき大平氏が外相に任命された。9 月に、田中・大平両氏の中国訪問が実現し、周総理との会談を通じて、中日国交正常化をうたった共同声明が発せられた。調印後、大平外相は周総理に約束した通り、記者会見の席で、台湾問題について特に次のような発言をされた。
「カイロ宣言において、台湾は中国に返還されることがうたわれ、(中略)この宣言の第8項には、カイロ宣言の条項は履行されるべしとうたわれておりますが、(中略)政府がポツダム宣言に基づく立場を堅持するということは当然のことであります」。また、「共同宣言の中には触れられておりませんが、日中国交正常化の結果として、日華条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められる、というのが日本政府の見解でございます」
このとき、以前大平氏に直接取材したとき「台湾問題はネゴシエーションを通じて解決できる」と言われたあの情景を思い出していた。中日国交回復の交渉を通じて、周恩来総理は大平氏の人となりを非常に高く評価され、「誠実で実直、無口で内向型だが、博学な方です。大平氏は誠心誠意、田中氏を補佐してきたが、まさに大平あっての田中であり、大平あっての中日国交回復だ」と周りの人に語ったほどだった。
78年の6月に、私は日本での任を終えて帰国したが、その年の12月に大平氏は総理大臣になられた。明くる79年の12月、大平氏は首相として初の中国訪問を実現され、大きな成果を挙げられた。北京訪問を終えられた後、氏は古都西安に行かれたが、碑林を参観されたとき、「温古(故)知新」の4文字を揮き毫ごうされた。
1979年12月の訪中の際、大平首相は西安で「温古(故)知新」と揮毫した(劉徳有氏提供)
2009年5月、所用で西安を訪問した際、大平首相の30年前の揮毫が碑林博物館にまだ保存されているかどうか聞いてみたところ、館長は係員に命じて保存してある文化財の倉から持ち出して見せてくれた。意外であり、感無量だった。女性の係員が白い手袋をはめ、ゆっくりと丁重に掛け軸を広げたとき、大平首相のあの特徴ある筆跡「温古知新」の4文字が30年の歳月を閲した今日なお、墨痕鮮やかに生き生きと躍動して人々の心を捉え、息をのむような感動と同時に、胸の高まりを抑えることができなかった。
この感動を、私は漢俳に書いた。
欣喜訪碑林, 喜びに満ちて 碑林を訪れん
仰観“温故而知新”, 仰ぎ観み る“温故知新”
墨香呼睦隣。 墨の香りは呼びかけるよ 善隣友好を
「温故知新」――今流に解釈すれば、「歴史を直視し、未来を志向する」という意味ではないだろうか。大平氏の揮毫された「温古知新」を拝観しながら、1979年12月7日、全国政治協商会議の大ホールでなされた氏の演説の一節を思い出した。
「由来、国と国との関係において最も大切なのは、国民の心と心の間に結ばれた強固な信頼であります。この信頼を裏打ちするものは、何よりも相互の国民の間の理解でなければなりません。
しかしながら、相手を知る努力は、決して容易な業ではないのであります。日中両国は一衣帯水にして二千年の歴史的、文化的つながりがありますが、このことのみをもって、両国民が十分な努力なくして理解し合えると安易に考えることは極めて危険なことではないかと思います。ものの考え方、人間の生き方、物事に対する対処の仕方に日本人と中国人の間には明らかに大きな違いがあるやに見受けられます。我々は、このことをしっかり認識しておかなければなりません。体制も違い流儀も異なる日中両国の間においては、なおさらこのような自覚的努力が厳しく求められるのであります。このことを忘れ、一時的なムードや情緒的な親近感、さらには、経済上の利害、打算のみの上に日中関係の諸局面を築き上げようとするならば、それはしょせん砂上の楼閣に似たはかなく、ぜい弱なものに終わるでありましょう」
劉徳有(Liu Deyou)
1931年、中国大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。
1952年北京へ。『人民中国』誌の翻訳・編集に携わる。
1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。
1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者・首席記者として日本に15年滞在。
1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。
著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。
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