劉徳有=文
小生のごみごみした“仕事部屋”に、紺色の紙に金泥で書かれた王羲之の『蘭亭序』が掛けられている。もったいない気がするが、日本の代表的な書家・柳田泰雲氏の手になる“我が家の宝”である。
その『蘭亭序』で知られる蘭亭にいつかは行ってみようと思っていたら、幸いにもそのチャンスがやって来た。
1998年10月10日、浙江省の紹興から車で蘭亭へ向かい、書聖・王羲之が『蘭亭序』をしたためたといわれる曲水流觴のほとりに立って、千数百年前に思いをはせた……
時代は、中国の東晋、永和九年(353)3月3日、右将軍王羲之は、謝安、許詢らの名士を名勝の地・蘭亭に招き、子の玄之・献之ら一族も加え、総勢42名で宴を催した。人々は曲水を流れ下る觴を手に、自作の詩を朗読した。このときの詩27編を編んだものが『蘭亭集』。それに付された序が『蘭亭序』である。『蘭亭序』は、中国では「天下第一行書」と高く評されている。
この日、柳田泰雲氏の『蘭亭序』の石碑が曲水流觴のほとりに建立された。王羲之の『蘭亭序』は行書だが、石碑の『蘭亭序』は楷書で彫られていた。泰雲氏の夫人・青蘭氏の率いる学書院のお弟子さんたちや地元の責任者、書家の面々が列席する中、除幕された。私も末席を汚させていただいたが、印象深い除幕式だった。
式の後、場所を移し、書家による揮毫が始まった。テーブルに画仙紙が敷かれ、書家たちが思い思いに腕を揮った。青蘭氏は、篆字で立派な書を仕上げた後、小生に何か書くよう促された。
「恥はよくかく」が、衆目の見る前で筆字を書いたためしはない。何度も辞退をしたのだが、どうしてもと言われ、観念のホゾを固めて筆を執った。手が震えてしょうがなかった。やっと書き上げたのが、次のような漢俳だった。
蘭亭立石碑, 蘭亭に石碑建つ
流觴曲水頓生輝, 曲水流觴、頓に輝きを増し、
彷彿泰雲帰。 あたかも泰雲帰る
ここで、柳田泰雲氏について一言――。小生が初めて泰雲先生にお目にかかったのは、84年9月に北京の中国美術館で個展が開かれたときだった。青蘭夫人とご子息の泰山氏にお会いしたのもそのときだった。柳田家は、初代柳田正斎先生に始まり、2代泰麓先生、3代泰雲先生、4代泰山先生と、およそ210年にわたる書道交流の歴史を持つ珍しい家系である。
泰雲氏の祖父に当たる柳田正斎氏(1797~1888年)は、名を貞亮といい、儒学者、書家として名を成し、書は初め趙子昂を、後に王羲之を学び、一門を構えた。詩画にも長じ、温雅の中に凛とした風骨がうかがわれる作品をものした。その書は、ほとんど一貫して、江戸末期から明治に入るころの、儒者風の堅実な書であった。泰雲氏の父親――泰麓氏(1862~1932年)は、名を信興といい、書と漢学を父に学び、少年期にすでに書名を上げていた。書は、正斎の法を守っていたが、号を半古から泰麓に改めたのを機に、書風も一変した。泰雲氏(1902~90)の名は伊秀、幼いころから泰麓氏の後継者として漢詩、漢文をもっぱら学び、厳格な家庭教育を受けた。6歳から書道の道に入り、10歳からは毎日楷書で千字文を書くことが日課になり、30年続いた。楷書はもちろん、篆書、隷書、行書、草書のいずれにも精通し、中でも楷書が特に優れておられる。泰雲氏の楷書は、顔真卿を主体に王羲之と欧陽詢の筆意を加味し、顔真卿の力強い筆致と王羲之の秀麗・典雅、欧陽詢の端正・厳密さを兼ね備え、格調が高く、しかも新味を感じさせる。25歳で第2回日本書道作品展で最高賞を、また第1回文部大臣賞を受賞。
89年9月、中華人民共和国成立40周年を記念して、5年ぶりに北京で2度目の泰雲氏の個展が成功裏に開催された。泰雲氏が米寿を迎えられた年である。
このときのハイライトは何といっても、人民大会堂における王震国家副主席との会見であろう。その日は、雲ひとつない秋晴れのいい天気だった。そのときの会話の一部を再現してみよう。
王震 私は楊尚昆国家主席を代表して、ご来訪を歓迎します。柳田先生は中国でもご高名であり、おじいさんの代から漢字書法に従事され、お弟子さんたちと共に中日友好と文化交流にご貢献をなされてこられました。
柳田 祖父、父と私の3代にわたり、200年も書に携わってきましたが、漢字書法は非常に奥行きが深く、果てしがありません。日本は中国から漢字を学び、日本の思想と芸術を形成する土台となりました。私は小さいときから父親について書道を学び、若いころに中国の書を追い越そうと思い、八十数年間努力してまいりました。王羲之に追い付こうとしましたが、どうしても追い付きません。どのような努力をすれば、追い付くでしょうか?
王震 先生の書は大変高い境地――漢字書法芸術の高峰に達しておられます。先生は大家です。
泰雲先生が90年3月に亡くなられた後、お骨の一部は、青蘭工夫人とご子息の泰山氏の立会いの下、先生が生前こよなく愛した風光明媚な杭州の西湖にまかれたと聞いている。
4代目の泰山氏も厳父の教育と薫陶の下、書道の修行に打ち込まれ、今では立派な書家として活躍しておられる。2004年の春、久しぶりに泰山氏に再会したが、10年の11月に北京で個展が開かれたとき、氏の書が泰雲氏の書の真諦を継承・発揚されておられることに大きな感銘を受けた。「寺に入って、写経に専念すれば、おのずと書というものが分かる」という先代の教えを守り、25歳の時、仏道に入り、実践を通じて厳父のこの教えを悟られたとのこと。自分の手で百箇寺への納経を成し遂げることが、「柳田書法と自らの書法を生み出す唯一の途である」という認識に立って、制作を始めたのだが、会場に展示された作品の一部から、写経体にとらわれず、各種の楷書体を生かしながら、伝統尊重を基礎に発揮された泰山氏の創意性が見いだされたときは、うれしかった。
柳田泰雲氏が中国のために揮毫した文字が泰山に刻まれた。これにより彼は泰山に筆跡を残した唯一の日本人となった(劉徳有氏提供)
劉徳有(Liu Deyou)
1931年、中国大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。
1952年北京へ。『人民中国』誌の翻訳・編集に携わる。
1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。
1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者・首席記者として日本に15年滞在。
1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。
著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。
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