箱根と老舍
藤田基彦=文・写真提供
1961年から半世紀にわたり、箱根ホテル小涌園が迎えた中国各界の賓客・代表団は、多くの貴重な書を残した。芳名録の数は50冊に達した。
半世紀にわたる中国各界代表団の真筆の揮毫には、個人的心情や物語、即興詩、古典の引用などがあり、揮毫の書体は、真書・草書・隷書・篆書があり、歴史的価値と芸術的価値がある上に、両国各界の先輩たちの、困難を恐れず友好親善関係を発展させる信念と、両国友好のために払ったたゆまぬ努力が強く感じられる。この連載を通して、上述のような友好交流の記録を今を生きる両国の人々に読み取っていただき、相互理解が深まり、両国の良好な関係発展に寄与することを願う。
中華人民共和国と私の勤務した藤田観光の二大事業所――箱根ホテル小涌園(神奈川県箱根町に1959年開業)と、椿山荘(東京都文京区に1951年開業)との縁は1961年にさかのぼる。
当時の日中関係は、「長崎国旗事件」(1958年)があり、冷え込んでいた。上司から「必要となるので中国語を勉強しろ」と言われ、近くの箱根町強羅にある中国語教室に通っていた人たちは、所轄の警察署員による訪問面接があったという。多分、思想調査が目的ではなかったかと言っていた。まだ、そういう時代だった。
箱根地域のホテル・旅館は、国交のない国からの代表団ということで、警備上の問題もあり、どこも予約受け入れを敬遠していたようだ。そこで箱根ホテル小涌園の常連客である作家の城山三郎先生が、「ホテル探しで困っているのなら、僕の定宿の小涌園を紹介してあげるよ」と日中文化交流協会に言い、61年から、先輩たちが中国代表団を困難の中で勇気をもってお迎えしてきたと聞いている。
64年10月、北京で「日中両国人民間の文化交流に関する共同声明」が調印され、それに基づき、老舍先生を団長とする中国作家代表団が日本に招待された。一行は、65年4月7日から2泊された。一行が谷崎潤一郎夫妻を訪ねた後、小涌園に来られ、日本中国文化交流協会から城山三郎、白石凡、木下順二の3氏らが夕食に参加された、との記録が残っている。
腕まくりして揮毫する賀敬之氏(左)。右は村岡久平氏
老舍先生は日本でも人気の方だ。83年9月、老舍先生の中国話劇『茶館』の訪日公演があり、東京・池袋のサンシャイン劇場で拝見した。その時の舞台は今も記憶に残っている。また、2010年4月、北京にある「老舍紀念館」への念願の訪問がかない、ご家族の写真や訪日時の記録などを拝見した。
1979年9月6日、歌劇『白毛女』の作者の一人である賀敬之・中国文化部副部長(当時)を団長とする中国京劇院三団訪日公演団が来館し、昼食後に老舍、劉白羽両先生の揮毫を団長にお見せしたところ発奮し、上着を脱ぎ腕まくりをして、ホテルのロビーのデスクで、わずか15分で即興詩を書き上げられた。内容は、老舍先生の死を嘆きながら、富士山、乙女峠、芦ノ湖遊覧船、箱根関所を取込み、小涌園の門をたたくのは、あたかもわが家の門をたたくようなものであり、まるで自分の故郷のように思えるというものだった。
老舍と劉白羽両氏の署名(1965年4月8日)
その詩は以下の通りだ。
昔曾聞風雲 今日来箱根
富士千年雪 人間幾浮沈
飛車雲中路 泛舟芦之湖
戦友輸肝胆 早解悶葫蘆
富士俯世久 何對女児羞
若比友誼花 感君卸白頭
叩門非叩關 小湧是故園
老舍同志在 家書報平安
(訳)
日本映画『箱根風雲録』で知られる箱根に
今日やっと来ることができた。
富士山頂の万年の雪は
人の世の浮き沈みを幾世代も見てきた。
車は雲の中の道を飛ぶように走り
船は芦ノ湖に浮かぶ。
忠誠を尽くした戦友も
このひょうたん湖を見て憂いを払っただろう
(注・葫蘆=ひょうたん、芦ノ湖に形から表現)
富士山は長く人の世を見渡してきたのに
なぜ乙女を見て雲に隠れるのか。
(中日の)友好が長く続くならば
どうか富士山はその白い髪飾り(雲)を外してほしい。
箱根の関の門をたたくのとは違い
小涌園はまるでわが古里のようだ。
老舍同志が一緒だったなら
手紙をしたため家人に無事を知らせただろう。
こういう最高の詩をいただいたことは、まさに仕事冥利に尽きると言える。