急病が結んだ縁
藤田基彦=文・写真提供
中国仏教協会の元会長・趙樸初氏(1907~2000年)は2回、ホテル小涌園に泊まったことがあり、熱い思い出がある。氏は長きにわたり、日本の多くの宗教者、文化人と親交を結び、日中の文化交流に大きな足跡を残した。また、詩人、書家としても知られた。日本の俳句を愛し、漢字で五七五を詠む中国流の俳句を創作、「漢俳」と名付けて普及に努めた。
初めて当園に来られたのは、趙樸初氏を団長とする中国仏教協会の友好代表団が日本を訪れたときのことだ。僧侶をもてなす中国式の精進料理を手配するために、事前にさまざまな工夫を重ねた。
中日仏教界の重鎮、趙樸初氏(左)と山田恵諦天台座主
横浜中華街の中華食材卸業者「源豊行」の周成耀社長に聞き、後に日本全国で有名になった料理人・周富徳さんを紹介してもらった。連絡すると、「仕事が終わって帰った頃に来てください」とのこと。小涌園の蛯名峻・中国料理長と共に夜9時過ぎに訪ね、いろいろな精進料理を教わった。
仏教協会の訪日代表団は1978年4月14日、到着した。日本側は、82歳の山田恵諦天台座主、比叡山延暦寺の小林隆彰・小森秀恵両師などが一緒に来館された。夕食の後、趙氏は団長室に戻り、窓の外の名月を仰ぎ、日本側の高僧に古代詩の朗読を披露した。
翌日の朝、朝食前に書かれたご一行の揮毫を頂戴した。趙樸初氏は「風月同天共結来縁」と書き留めた。これは、天武天皇の孫・長屋王(684~729年)が、日本で仏教を広める高僧を招くために、「山川異域風月同天寄諸仏子共結来縁」(山川の域異なれど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄る者同士、共に生まれ来たる縁を結ばん)という詩を刺しゅうした千着の袈裟を唐に送った、という故事に由来する。これを鑑真和上が引用し、日本へ渡る際の決意の言葉としたとされ、中日友好を願って氏は揮毫した。
その後、箱根の遊覧に出発する前、趙樸初氏は額にうっすら汗をかいていた。私は天気が良いせいかと思っていたが、昼食の場所に着くと趙樸初氏は体調を崩し、客室で休むことになった。医師の手配を希望されたので、中国に行った経験のある箱根医院の佐野節夫院長を推薦した。佐野院長は普段から中国に親近感を持っており、趙樸初氏の名前も知っていた。すぐに車で駆け付けたので、診てもらった。おかげで大事に至ることはなかった。
後日、宿泊時の記念写真を趙樸初氏に送ったところ、なんと氏から、訪問中のもてなしと共に、体調不良の際の対応に感謝する礼状をもらった。このときの手紙は今でも大切にしている。
翌79年、鄧穎超・全国人民代表大会常務委員会副委員長を団長とする中華人民共和国全国人民代表大会訪日代表団の一人として、趙樸初氏は再度来日した。
当園に到着後、客室に案内すると、すぐに硯と色紙を求められた。また、昨年の体調不良の際に世話になった人の名前を全員教えてほしい、と言われた。そこで、佐野院長や当園の担当者など10人の氏名を伝えた。
すると氏は、昼食もとらずに一心不乱にお礼の詩を当園と各人宛てに揮毫された。それが次の詩である。
重到箱根小涌園
主人情意比泉温
難忘救急千金薬
不止療飢一飯恩
去歳四月十四日来時忽患急性腸炎
頼主人関照延醫診治
今日再来書為誌謝
藤田基彦先生留念
(訳文)
再び箱根小涌園にやって来た。
主人の思いは温泉よりも温かい。
命を救ってくれた治療は忘れ難い。
その恩は空腹の飯よりありがたい。
(謝辞)
昨年4月14日にこちらに来たとき、突然、急性腸炎になった。だが、主人の心遣いにより医師の治療を受けられた。今日再び来ることができたので、感謝の意を(詩として)書き残す。
藤田基彦さんへの記念に。
次の年の80年2月、藤田観光の調理師友好訪中団として江蘇省を訪れた後、北京訪問の日程が江蘇省側から提示された。この機会に、2度来園して貴重な揮毫をいただいた趙樸初氏にお礼を申し上げようと、表敬訪問を希望した。
趙樸初氏から贈られた救急処置に対する感謝の詩(79年4月13日)
その頃、中国はちょうど春節休みの時期だったが、うかつにも、それを南京に着いた後で知った。だが氏は、休み中にもかかわらず中日友好協会の応接室で私たちに会ってくれた。それも、上記のような縁があったからではないかと、ありがたく感じた。
――こうした思い出を大切に、氏の命日5月21日には、必ず北京に向かって合掌している。