漫画で深める友好
藤田基彦=文・写真提供
中国の漫画家訪日代表団は、1981年1月6日に来館された。代表団といっても、メンバーは団長の華君武氏と、団員の張楽平氏、英韜氏の計3人。いずれも有名な風刺漫画家だった。
3人は日本アジア交流協会の招きで来日し、東京や名古屋、浦和(現さいたま市)で開催された漫画展覧会に出席した。同展は、日本アジア交流協会が主催し、駐日本中国大使館の後援で開催。人民日報社が発行する漫画紙『諷刺とユーモア』の掲載作品の原画や、『三毛流浪記』などの傑作漫画、中国のアニメーション、さらに日中両国の新作漫画など262点が展示された。
3人は、1月2~6日に都内で開かれた漫画展覧会の最終日の午前中、芦ノ湖遊覧などを楽しんだ後、昼食に来館された。
中華料理の昼食を終えると、芳名録にこう書き記した。
中國漫画家代表團訪日,受到日本各界友好接待,
今日得遊箱根名勝,飽覧富士美女山,
又嘗箱根小涌園之佳肴,因請張三毛代我們致敬。
華君武 張楽平 英韜
一九八一年一月六日 于小涌園
張三毛漫画絵 張楽平書
(訳)毎日、日本各界の心のこもった接待を受けておりますが、今日は箱根の名勝に遊び、美女のごとき富士山をたっぷりと眺めることができました。また、箱根小涌園の素晴らしい料理もいただきました。ここで、張三毛にわれわれを代表してもらい、皆様に御礼を申し上げます。
この揮毫だけでなく、張楽平氏自筆の人気漫画キャラクター・三毛の絵も描いていただいた。三毛は、その名のごとく3本の毛を頭から生やした少年で、張楽平氏が1935年から執筆を始めた漫画シリーズ『三毛流浪記』の主人公だ。上海生まれで、孤児となり、苦しい生活を乗り越えて成長する過程が描かれた。
三毛は、世界的に最も長年にわたって活躍し続けた漫画キャラクターの一人で、日本の『フクちゃん』(36年発表、横山隆一作、朝日新聞など掲載)、『サザエさん』(46年発表、長谷川町子作、福岡の夕刊フクニチなど掲載)や、米国の漫画『ピーナッツ』のチャーリー・ブラウンやスヌーピー(50年発表、チャールズ・M・シュルツ作)より早く誕生している。三毛は今もなお中国で最も広く知られている漫画の主人公だ。
後で来館された中国からの代表団団員や、随行の日本人、在日華人は、この三毛の絵を見てびっくり。「私も欲しい」「売ってください」「本物を初めて見た」などと口々に発せられた驚きの言葉が耳に残っている。
それから約30年後、私は「藤田観光箱根小涌園中国各界代表団揮毫足跡展」の準備に訪中し、北京の中日友好協会を訪れた。そこで運よく英韜・王慶英夫妻に会い、英韜氏らが訪日した当時の話や張三毛の話に花が咲いた。すると英韜氏は、改めて「あの張三毛は貴重ですよ」とその価値に太鼓判を押した。
中国漫画家代表3人の訪日から、40年余りがたった。私は漫画に詳しくないが、日中ともに今の作者や読者のほとんどは戦争の経験がないと思う。だが、日中間で作者と読者の交流が広がれば互いに親近感が深まり、両国の相互不信は払拭できるのではないかと考える。ユーモアを含んだ漫画があれば、共に笑い合っていっそう相互理解が進むだろう。
箱根ホテル小涌園は、日中国交正常化がまだ実現されていない61年から中国からの代表団を受け入れてきた。私は69年に入社し、同4月に同園に配属された。
そして、3年後の1972年に、日中国交正常化が実現された。その前後に来館の代表団は特に忘れられない。団の中には私と同年代の人が多く、きびきびとした行動で、今後の中日関係に大いに希望を抱いていると感じた。
人的往来を拡大するためには、こういう若い人たちと交流を深めないと、と考えるに至った。直後に藤田観光の中国担当となり、日中友好の推進者となることを目指して働いた。
国交正常化が実現されてから、日中間の友好往来は大きく広がり、今はあらゆる分野で交流が進んでいる。小涌園だけでもこれまで約1000の代表団を迎えた。私も従業員と共に友好の一心でもてなしを続け、両国の交流がますます盛んになっていくのを見届けた。おかげで大変ありがたい一生の良い思い出を数多く残すことができた。
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この1年間の連載を通し、これまでの仕事から日中往来に携わった経験を振り返り、思いを新たにした。連載は今号が最終回となるが、読者の皆さんは楽しんでもらえただろうか。私は今後も中国に長年携わってきた一人として、微力ながらも日中友好交流に尽していきたいと思っている。
藤田基彦(ふじた もとひこ)
1969年4月藤田観光入社、箱根ホテル小涌園に配属、ベルボーイからスタートして同園支配人に。その後、フォーシーズンズホテル椿山荘東京や藤田観光常勤監査役、同西日本営業本部長兼中国担当本部長などを歴任、2015年3月同社を退社。1970年代初めから約半世紀にわたり中国事業を担当。現在も日中間の交流事業に携わる。
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