日中交流のパイオニア

2018-03-05 16:14:35

劉徳有=文

 1年間続いた『漢俳よもやま話』は、この辺でひとまずおき、中日平和友好条約締結40周年を迎える今年、友好交流にまつわる話を中心に、自らの体験も交えながら、思い付くままに毎月1回の連載の形でつづってみたい。

 まず第1話として、戦後間もなく、万難を排して中国訪問を決行した日本人について。

 ここで、「決行」という表現を使ったが、1950年代初期の東西冷戦時代に、日本人の新中国への渡航はそれこそ大変なものだった。当時、日本のマスコミは中国を「中共」と呼び、当局は米国の顔色をうかがい、国民の新中国への渡航はご法度だった。

 そういう中にあって、1952年5月15日、北京の西郊空港に着陸したソ連のイリューシン14の小型機から3人の日本人が降り立った。緑風会参議院議員高良とみ、社会党衆議院議員帆足計と改進党衆議院議員宮腰喜助の3氏だった。

 3氏はなぜこの時期に、どのようにして北京にやって来たのだろうか?

 実は、51年の2月、ベルリンで世界平和評議会が開かれ、ソ連で国際経済会議を行うことが決定された。その後、準備会が数回開かれ、周恩来総理の指示で、中国からは、中国人民銀行頭取の南漢宸と中国銀行副総経理の冀朝鼎の両氏が出席したが、日本からは参加者がいなかった。しかし、52年4月に予定されていたモスクワ国際経済会議にはどうしても日本代表の参加が望ましく、南氏は帰国後、廖承志氏と相談したところ、中国側発起人の名義で日本の著名人宛てに招待状を送ることになった。

 中国としては、モスクワ国際経済会議を機に、西側諸国との交流とりわけ中日民間交流のルートを開き、米国による中国封じ込め政策を打破する狙いがあった。招待状を受けた日本側の経済界と日中友好団体は積極的な反応を示したが、日本政府は米国に気兼ねして、モスクワ行きのビザ発給をかたくなに拒否した。

 高良とみ氏は以前からユネスコの会議に出席するため、パリ行きのビザを所持しており、そのビザでモスクワに乗り込んだ。一方、帆足計氏と宮腰喜助氏は「デンマークに赴きチーズ産業を視察する」名義で、パスポートを申請し、「モスクワへは行かない」という一札を取られてモスクワに向かった。

 会議は4月3日に開かれ、12日に閉幕。参加国は49カ国、出席者は470人余りに上った。高良氏は会議が終わるころにモスクワに到着したが、帆足と宮腰の両氏が駆け付けたときには会議はすでに終了していた。しかし、周総理の手配で、中国側代表団の副団長雷任民氏がモスクワに残って日本代表の到来を待っていた。そして、中日貿易再開の問題について話し合い、中国国際貿易促進委員会により3氏が中国訪問に招待される旨を伝えた。

 ここで、高良とみ氏について一言。米国留学の経歴を持つ氏は、英語が堪能。日本女子大の教授などを務め、32年1月に上海を訪れた際、内山完造氏の紹介で魯迅に会っている。また、インドのガンジー、タゴールとも交際があり、反戦平和運動の社会活動家としても知られていた。

 北京空港で高良氏ら3人を出迎えたのは、前述の冀朝鼎氏と日本にもなじみの深い孫平化氏。通訳と世話役の孫氏から後に直接聞いた話だが、機内に入って、孫氏はまず日本語であいさつをした。戦前、蔵前高等工業(東京工業大学)に留学したことのある孫氏は、もちろん日本語が話せた。しかし、孫氏が言うには、彼は戦後長いこと日本語を使っておらず、おまけに彼の話す日本語は中国語の東北なまりの影響が強く、高良氏らにはチンプンカンプンだった。「この人は何を言っているのかサッパリ分からない」と苦情を言われたそうだ。ところが、米国帰りで英語がペラペラの冀朝鼎氏は、「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」と英語であいさつすると、いっぺんに通じ、大変喜ばれた。(孫氏の名誉のためにも断っておくが、孫氏の日本語は、後に見違えるほど上達したことは誰もが認めている。)

 さて、高良氏3人の宿泊先だが、当時外国人の泊まる高級ホテルは全北京に北京飯店1軒しかなかった。たまたまふさがっていたので、宣武門近くの頭髪胡同という横町に格好の四合院――中庭の付いた平屋の民家があり、そこに泊まってもらうことになった。食事は、コックさんが毎日腕を振るっておいしい料理を作って客人をもてなした。中でも、豚足の煮こごり――“水晶猪蹄”が特に喜ばれたそうだ。

 言うまでもなく、高良氏ら3人の訪中の主な目的は、新中国をつぶさに視察するほか、交渉を通じて第1次中日民間貿易協定を結ぶことにあった。交渉はのっけから難航した。それというのも、日本は米国の牛耳るココム(COCOM、対共産圏輸出統制委員会)のメンバーであり、いわゆる「戦略物資」といわれる400種以上について技術製品の対中国輸出が厳禁されていたからである。これでは、中日間の正常な貿易などできっこない。「禁輸」品以外の、農業機械を含む一般商品を甲、乙、丙の3種類に分けたリストを作成するしかなく、その中には中国の欲しい商品は含まれていなかった。一方、経済の復興期にあった中国は、日本向けに輸出できる商品といえば、鉱産物や農産物、手工芸品しかなかった。交渉はスローだったが、終始友好的な雰囲気に包まれていた。双方とも、この生まれたばかりの細いパイプを大事にしたい気持ちは同じだった。交渉が暗礁に乗り上げ、どうにもならなくなったときなどは、いつも冀氏が英語で直接高良氏と会話を交わし、話がよく通じたため、難題は一つ一つ解決された。こうして、交渉はついに妥結を見、貿易額往復それぞれ3000万ポンドの第1次中日民間貿易協定が調印の運びとなった。

 調印式は52年6月1日、北京西郊民巷にある中国国際貿易促進委員会の大ホールで行われた。中国側は、同委員会主席の南漢宸氏が、日本側は、高良、帆足、宮腰の3氏が調印した。

 帆足氏は感激のあまり、詩を書き、「我々3人はぐらぐら揺れる木橋を渡って、ついに渓流峡谷を越えることができた」と歌い、廖承志氏は「高良氏ら3人は、中日航路を切り開いたパイオニアであり、何物をも恐れず、中国の門を押し開けた勇士である」と称賛を惜しまなかった。

 高良氏ら3人の帰国は、凱旋将軍のように日本の大衆から歓迎されたが、一方、「旅券法違反」を犯し、「中共に洗脳された」3人を「法的に追及」し、「処罰」するとすごみを利かせていた日本の当局も結局は、大衆の圧力の前で追及などできず、「尻すぼまり」に終わってお茶を濁したとか。

 

劉徳有

1931年、中国大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。

1952年北京へ。『人民中国』誌の翻訳編集に携わる。

1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。

1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者首席記者として日本に15年滞在。

1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。

著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。

 

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