初めての訪日――東京における第3次中日貿易協定交渉

2018-03-05 16:16:13

劉徳有=文

 羽田空港から都内へ向かう車の中で、窓越しに沿道の景色を眺めていたら、店の玄関に「そば処」と白で染め抜いたのれんが掛かっているのを目にしたとき、初めて日本へ来たという実感が湧いた。

 まだ高速道路ができる10年ほど前の1955年3月のことである。私にとり、初めての日本訪問だったからであろう、特に印象が深かった。

 第3次中日貿易協定締結の交渉のため、中国は38人に上る代表団を日本に送った。団長は中国政府対外貿易部副部長の雷任民氏。私は、8人の通訳陣の中の1人だった。そのころ、中日間に直行便がなく、日本へ行くには香港を経由しなければならなかった。広州に着いてから、入国手続きをとるため、香港に先発隊を送ることになり、孫平化氏、呉学文氏と私の3人が選ばれた。

  入国の手続きをとるため、呉氏が香港の日本総領事館に赴いた。査証申請用紙の国籍欄に、「中華人民共和国」と記入しようとしたところ、日本側は同意せず、「中国」と記入するか、空欄にするよう求めた。「中国」を記入できないことはなかったが、中華人民共和国を認めない日本当局にどうしても中国の正式名称を認めさせたい気持ちから、あくまでも頑張り通した。国籍欄を空欄にするのは、「無国籍」を意味するので、絶対に譲れなかった。膠着状態が数日間に及び、事態は全く進展がなく、時間ばかりが過ぎていった。

 ある日、突然呉学文氏に一本の電話がかかってきた。林祐一領事からで、呉氏に総領事館に来るようにということだった。呉氏が「例の問題は解決されましたか」と尋ねると、「所以嘛!」といういささかピント外れの中国語が返って来た。お互いにそれ以上何も言わずに電話を切った。

 「所以嘛!」とはどういう意味だろうか?直訳すると「だからさァ」で、その意味するところは「例の問題はもう解決しました。『だから』ここに来てください、ということだろう」と判断した。領事館から戻った呉氏の話によると、果たせるかな、日本側はわれわれの要求通りに手続きをすると明言したそうだ。しかし、後日手にしたのは、査証ではなく、1枚の「渡航証明書」だった。

 思うに、日本領事館にとってこれは苦心の策であった。もし査証を発行するなら、中華人民共和国外交部発行のパスポートに査証印を押さなければならず、そうすれば、中華人民共和国を認めることになるので、形式上、承認しない姿勢を示す必要がある日本は、1枚の「渡航証明書」を発行してその場をしのいだのであろう。

 代表団は、皇居のお堀近くにあるホテルテートに泊まった。高級ではないが、貸し切りであるため、便利で居心地が良かった。このホテルは戦前、帝室林野局の所有物であった。戦後一時マッカーサーの「連合軍司令部」に接収されたが、後に民間貿易禁令が解除され、改築されてホテルテートとなり、外国商人の日本での宿泊先として使われるようになった。1960年代に入り、ホテルテートは取り壊され、高層ビルが建てられた。パレスホテルである。

 今でも覚えているが、ホテルテートの向かい側に消防署があり、夜になると「火の用心」のネオンの文字が輝いていて、人目を引いた。

 代表団は日本に着くと、連日、日本側の主催する歓迎会の出席に追われた。米国の圧力で、代表団への招請を取り消した大企業もいくつかあった。しかし、日本の産業界の多くは、代表団が到着する前から何らかの形で接触したいと考えていたため、スケジュールはびっしりだった。そんな中で、ある日、東京の八芳園で団長はじめ数人の団の責任者が、通産大臣の石橋湛山氏、経済企画長官の高碕達之助氏および自民党幹事長の岸信介氏らと会見した。日本側の工夫で、会見は、「民間団体が招請して政府関係者が参加する」という形で行われた。双方がどのような会話を交わしたかはほとんど忘れたが、実質的な問題に触れなかったことは確かだった。一つはっきり覚えているのは、石橋湛山氏が「これは日中友好の千載一遇のチャンスである」と言ったことである。

 双方の折衝は、1953年の貿易協定に基づいて行われたが、政府の支持と保証がないまま今回の民間貿易協定に調印することになれば、今後さらに貿易を拡大することは困難になるため、速やかに、この民間貿易協定を政府間協定に移行させる必要があるという共通の認識を持っていた。しかし、実際はそう簡単ではなかった。

 「平等互恵」と「同類物資交換」を原則とすること、期限内におのおのの輸出入総額は三千ポンドとすること、相手国で単独の商品展を開くことなどについては、すぐに合意に達したが、他のいくつかの問題については交渉が難航した。例えば、両国の国家銀行間で清算と支払いをすること、相手国に常駐の外交官待遇を受ける通商代表部を設けることや両国政府間で貿易協定を締結することなどが今回中日民間貿易協定に加えられることになったのは、重要な進展ではあったが、現実はまだ双方の努力目標に過ぎなかった。これらの目標が実現できるか否かは、中国側には妨げになるものは全くなく、全て日本政府の態度次第であったため、中国代表団は日本政府の何らかの保証を得る必要があった。

 日本代表団は鳩山首相の支持を得るのにかなり工夫を凝らしたようである。日本代表の1人はあらかじめ鳩山首相の日程を確かめ、国会議事堂の総理大臣室前で鳩山氏を待ち受け、鳩山氏が現れると、間髪を入れずに大きな声で、「総理、協定へのご支持とご協力をいただけますね」と聞くと、鳩山氏は「良いだろう」と答えた。実に短い会話だった。なぜこんな形をとったのか、これ以上詮索する必要はなく、中国代表団にとって日本政府の保証さえとれば、日本側内部の事情がどうであれ、こだわる理由が全くなかったのも事実である。

 大筋での原則が決められ、双方は全体会議を開き、5月4日に調印式を行った。

 

 

劉徳有

1931年、中国大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。

1952年北京へ。『人民中国』誌の翻訳編集に携わる。

1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。

1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者首席記者として日本に15年滞在。

1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。

著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。

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