毛主席、曹操の詩を揮毫

2018-03-05 16:24:05

劉徳有=文 

 毛主席直筆の書は、「日本の友人の皆さまへ」という形で、集団に贈られたことはあるが、日本の一個人に贈ったというのはあまり聞かない。

 「ジャーナリスト出身の学者首相」の誉れを持つ石橋湛山氏に、毛主席自らが曹操の詩『亀雖寿(亀は命長しといえども)』を揮毫して贈ったのは、珍しいケースであるといえよう。

 それは1963年のことである。この年、日本国際貿易促進協会総裁に就任した石橋湛山氏は、9月に北京で開かれた日本工業展覧会の総裁として夫人同伴でお見えになり、10月5日の夜、北京飯店の大ホールで開幕を祝う盛大なパーティーを主催された。このパーティーに出席された周恩来総理は、石橋氏の歓迎の言葉に続いて、情熱あふれるあいさつを行ったが、その日は、私が通訳を仰せ付かった。

 それより4日ほど前の10月1日夜、天安門広場で国慶節を祝う交歓会と花火大会が催されたが、たまたま北京に居合わせた石橋湛山氏夫妻も招かれ、貴賓として天安門楼上で毛主席との会見を果たし、大いに喜ばれた、と人づてに聞いていた。

1963101日、毛沢東主席は北京の天安門楼上で日本の元首相、国際貿易促進協会総裁の石橋湛山氏夫妻と会見した(劉徳有氏提供) 

 会見の際、石橋氏はこの千載一遇のチャンスを逃すまいと、毛主席に揮毫を所望したそうだが、快諾した毛主席は、10月7日、曹操の有名な詩『亀雖寿』を画仙紙にしたためて贈られた。

 曹操の詩は四言詩で、1456字からなっており、さわりの部分を抜き書きしてみよう。

 神亀雖寿, 猶有竟時,(神亀は寿といえどもなお終わる時あり)

 騰蛇乗霧, 終為土灰。(騰蛇――竜は霧に乗ずるも ついには土灰となる)

 老驥伏櫪, 志在千里,(老驥――老いたる馬は櫪に伏すも 志 千里に在り)

 烈士暮年, 壮心不已。(烈士暮年 壮心やまず)

 ご参考までに、口語訳にしてみたが、さしずめこういうことになろうか。

 亀の中には、まれにではあるが、すごく長寿のものがあると聞く。それでも命には終わりはある。

 竜は霧に乗って天に舞い上がるというが、最後は土くれとなってしまう。

 しかし千里をはせる駿馬は、たとえ厩にあっても、志は千里の彼方を駆け巡っている。

 男児たるもの、年老いたからといって、はやる熱い気持ちを止められるものではないのだ。

 毛主席の揮毫は、冒頭に「曹操詩 一首」、落款に 

 「応石橋湛山先生之嘱為書

            毛澤東

           一九六三年十月七日」

と、「石橋湛山氏の求めに応じて」という断り書きが入っている。

 ところで歴史上の人物・曹操に関しては、『三国志演義』や中国の芝居では一様に悪玉に扱われているが、これは劉備や諸葛亮の蜀の国を正統と見なす観点から来ているもので、実のところ曹操は大変に優れた軍事家、政治家、文学者だったと中国の歴史家の間で定評がある。曹操のこの詩は、素朴でしかも目に見えるような形で、生死に関する不変の法則を説き、積極的な進取の精神を歌い上げているため、毛主席に大変愛されていたそうである。

 64年秋以降、私は新華社記者として日本に駐在していたころ、取材で東京豊島区の中落合にある石橋氏のお宅に何回か伺ったが、玄関のドアの上に、額に入った毛主席直筆の曹操の詩が掲げられているのを目にしたことがある。素人の私にはよく分からないが、毛主席の書は、『亀雖寿』の詩作を胸に、一気呵成に書き上げ、力強く勢いがあり、雄渾天成の感を与える、ともっぱらの評判である。

 毛主席はなぜ石橋湛山氏に会い、よりにもよって曹操の詩『亀雖寿』を贈ったのか? やはり、石橋氏の人となりと関係があるように思われる。

1963107日、毛主席自らが揮毫して石橋湛山氏に贈った曹操の詩『亀雖寿』(劉徳有氏提供)  

 「反骨のジャーナリスト宰相」、「有識の士」と中国で尊敬されている石橋湛山氏は、1884年生まれ、早稲田大学文学部を首席で卒業。東京毎日新聞の記者となり、のち東洋経済新報社に入社、編集局長を経て主幹に。東洋経済新報社はリベラリズムを編集の基本に据えていたため、社説を担当していた石橋氏はその立場から論陣を張り、いわゆる「満州事変(九・一八事変)」や「五・一五事件」を厳しく批判する一方、日本政府の軍国主義政策や植民地支配に反対し、全ての植民地の放棄を主張した。このように、日本が侵略戦争へと傾斜していった昭和初期にあって、独り敢然と軍部を批判し続け、太平洋戦争に対しても軍部への迎合を拒んだ。軍部ににらまれ圧力をかけられながらも、信念を貫き、最後まで自説を曲げなかった。

 戦後に入り、5612月の自民党総裁選の際、石橋氏は岸信介との決戦投票で勝利し、鳩山一郎の後を継いで首相となった。しかし、持病の三叉神経麻痺が悪化して、言語障害になり、加えて肺炎にかかったため、国会の審議もままならず、早期回復困難とみて、断腸の思いの中、退陣を決意せざるを得なかった。石橋氏の首相在任はわずか63日という短いものだった。総理大臣というトップの座にすわった者が、ポストに執着する政権亡者のように醜態をさらすのではなく、政治家の良心に従って、鮮やかに潔く退陣を決意したことは日本の政界のみならず、一般国民にも深い感銘を与えた。

 病後の療養で健康を回復した石橋氏は、戦前から対中国接近政策を模索し続けた信念に基づき、中国との友好関係構築に引き続き心血を注ぎ、59年9月、63年9月の二度にわたって訪中。

 言うまでもなく、毛主席は石橋湛山氏の人格を高く評価し、氏が「老いてますます盛ん」であることを心から祈念して、『亀雖寿』を選び、揮毫して贈ったのだと思われる。

 ところで、毛主席の揮毫したこの曹操の詩について、後日談がある。

 74年1月のある日、当時新華社記者として東京に駐在していた私の事務所に、1通の手紙が舞い込んだ。差出人は、元の勤務先・北京外文出版社の同僚で、書籍の装丁デザイナーの呉寿松氏だった。それによると、日本の友人たちに贈られた毛主席の揮毫を集めて豪華本を近く出版するので、ぜひとも『亀雖寿』の揮毫がほしい、よって至急写真に撮ってフィルムを送ってきてほしいというものだった。手紙だけでは心配だったのか、電報まで打ってきた。製版の質を保証するため、新華社本社と契約関係のある中国通信社のベテラン・カメラマンにお願いして早速撮ってきてもらい、大至急北京に送った。

 のちに出版された豪華本のタイトルは『毛主席為日本友人題辞』。今でも日本のどこかに、この豪華本が保存されているのではなかろうか。

 

劉徳有 

1931年、中国大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。 

1952年北京へ。『人民中国』誌の翻訳編集に携わる。 

1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。 

1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者首席記者として日本に15年滞在。 

1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。 

著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。 

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