周総理と中日『白毛女』
2018-04-28 11:20:53
劉徳有=文
話は60年ほど前にさかのぼるが、新中国初期の劇映画が日本に伝わったころ、『白毛女』を「シラガオンナ」と読んだ人がいたとか。戦後、ずっと往来が途絶えていた中日間にやっと交流が始まったばかりのことでもあり、「むべなるかな」とでもいえよう。
1950年に長春の映画撮影所でつくられた『白毛女』は、中国全土で大ヒットし、52年春、戦後中国を訪れた日本の3人の国会議員によって、周総理からの贈り物として日本に持ち帰られた最初の新中国の劇映画だった。
悪徳地主に辱められて山奥に逃げ込み、黒い髪が真っ白になる数奇な人生を送った貧農の娘・喜児が許嫁の解放軍兵士に救われるという民間に伝わるストーリーだが、旧社会は人間を「鬼」にし、新社会は「鬼」を人間に変える、というのがこの物語の真諦であり、魂であった。
当初、この映画は日本政府の規定によって、映画館での一般公開は許されなかった。結局、日中友好協会に渡され、協会の幹部がフィルムを担いで歩き、今日はあの小屋、明日はこの講堂と、日本各地で「『白毛女』上演会」を開いた。松山バレエ団の団長・清水正夫氏がこの映画を観たのは東京下町の小さな会場だった。清水氏の話では、感動のあまり、涙なしには見ることはできなかったそうである。清水氏の妻、バレリーナの松山樹子氏も、誘われて追いかけるように方々の会場へ『白毛女』を観に行った。
幼いころから、バレエ一筋に生きてきた松山樹子氏は日本の敗戦を迎えて、あの戦争の苦しみを忘れてはいけない、過去を忘れてはいけないと思っていた矢先のことでもあり、虐げられていた中国の農民たちが自らの力で解放を勝ち取っていく姿が松山氏の心を捉えて離さなかった。そのころ、清水、松山の両氏はちょうど日本人の持ち味を生かせるバレエの素材を探していて、『白毛女』を見た途端、「あっ、これだ!」と思ったそうだ。特に主人公の喜児の黒髪が、パッと白髪に変わるということは視覚的にも、作品の構成からいっても、バレエに向いていると考え、早速、バレエ化に取り掛かった。
しかし、いざ創作に取り掛かってみると、日本には『白毛女』の資料が全くなく、困り果てた末、中国戯劇家協会に手紙を出すことにした。会長で劇作家の田漢氏の肝いりで、オペラ『白毛女』の舞台写真集が送られてきた。53年の暮れのことである。音楽は中国のオペラ『白毛女』の楽譜を参考にしながら、林光氏が独自にバレエ『白毛女』のために作曲した。松山樹子氏はスタッフと相談しながら、懸命に『白毛女』のイメージを考え、振り付けをしていった。
55年は、松山バレエ団にとって重要な年だった。2月12日、東京の日比谷公会堂でバレエ『白毛女』が初日を迎えた。まず入場券についてだが、清水氏から筆者に寄せられた手紙によると、「バレエ団の土地を担保に入れて麹町税務署の役人から、4600枚の入場券の裏にうやうやしくスタンプを押してもらい、スタートを切った」というから、当時いかに大変だったかが分かる。
初日は雪の降りそうな寒い日だったが、たくさんの観客が詰め掛けて、1階から天井桟敷まで入りきれないほどの人であふれた。ほとんどが学生、勤労者を中心とした若い人たちだった。
「初演のときの興奮は、今でもよく覚えています。あふれるような観客の熱い視線を一身に背負って、無我夢中に踊りました。
幕が下りると同時に、割れるような拍手が響きわたりました。アンコール、アンコールの声です。明るくなった客席をみると前列の観客の目には、涙が光っているのです。ハンカチを握りしめて、泣きじゃくっている人もいます。カーテンコールで一列に並んだ踊り子たちも、興奮を抑えきれずに涙を流していました。……」(松山樹子氏の手記より)
その年の5月、松山樹子氏は日本代表団に加わって、ヘルシンキ世界平和大会に出席している。清水氏の手紙によると、「この時、分担金が1人40万円かかりましたが、実はお金がなくて私が親父からもらった東京の小学校の校庭(私の出身校)214坪を東京都に坪2000円で買ってもらって(今では考えられぬ安さ)、やっと1人分の金を作ったのです。羽田からプロペラ機に乗りインド周りでパリに入り、ヘルシンキに入りました」
「そこで中国代表団の郭沫若先生に松山がお目にかかることができたのです。(中略)日本代表団団長は大山郁夫先生でした。郭先生から中国へのご招待を受け、一行は(中略)モスクワを経て北京へ入りました。(中略)そして再びモスクワへ行き、ウラノーワ女史とともに勉強して、再び北京の国慶節へ。北京飯店の国宴で周総理にお目にかかる光栄をにないました」
そのときの情景を松山氏は手記の中で次のように述べている。
席上、「乾杯も終わり、宴会が盛り上がってきたとき、周総理がとつぜん、外国記者団に向かって、『これから、重大発表があります』というのです。全員が何事かと色めきたち、座が一瞬緊張に包まれて静まり返ると、周総理はふたりの美しい中国女性を連れてわたしの前へピタリと止まりました。
周総理はわたしに手を差し伸べて、皆さん、ここに3人の白毛女がいます。と言ったのです。オペラ『白毛女』の王昆さん、映画『白毛女』の田華さんでした。このふたりにバレエ『白毛女』のわたしを加えて、『3人の白毛女』と言ったのでした」。「まだまだ未熟な私を押し出して、何気なく『重大な発表がある』と言ってくださるセンスあふれるユーモアをもった一国の指導者なぞ他にいるでしょうか。
『白毛女』をもって、いずれ皆さんでいらっしゃいと言ってくださったのも、このときでした。周総理のこの言葉を宝のように胸に抱いて、私は帰国の途につきました」
58年3月3日、松山バレエ団は船で中国へ向けて出発し、3月8日、天津に上陸して北京に向かった。公演は北京の天橋劇場で13日から始まり、熱狂的な観客の歓声に包まれて大成功を収めた。
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