周総理とピンポン外交

2018-05-31 13:46:49

 劉徳有=文 

 1971年の春、毛主席と周総理のイニシアチブで「ピンポン外交」が展開され、ピンポンという小さな球が地球という大きな球を動かしたことにより、閉ざされていた中米関係のドアが開かれ、さらには、後の中日国交正常化の序曲となった。

 「ピンポン外交」の舞台は、ほかでもなく71年3月に名古屋で行われた第31回世界卓球選手権大会であった。新聞記者として東京に常駐していた私のところに、71年の年頭に、思いがけなくも、新華社の本社から電報が入り、名古屋へ行き、中国を代表して第31回世界卓球選手権大会のトーナメントの抽選をするよう指示された。ピンポン大会の抽選は、もちろん生まれて初めてであり、中国チームにとって思わしくない結果になったらどうしよう、とそればかりが心配だったが、結局、慣例に従って、シード選手をうまく組み合わせ、心配は取り越し苦労に終わった。

 中国卓球代表団が名古屋に姿を現したのは71年3月21日だった。「文化大革命」のため、6年ぶりの国際試合の参加である。本社の指示で、われわれ東京駐在の中国記者数人は代表団に随行してきた取材班と名古屋で合流した。

 ところで、中国チームの大会参加だが、日本卓球協会会長の後藤鉀二氏の貢献を抜きにしては考えられないことだった。氏は愛知工業大学の学長、頑固でサッパリした性格の持ち主で知られ、世間ではむしろ少し右寄りだと見られていた。31回大会にもし強豪チームの中国が参加しなければ意味がなく、中国の参加には、台湾がアジア卓球連盟に席を占めている状態をまず変えるべきだというのが氏の信念だった。そのためには、台湾をアジア卓球連盟から追放するしかなく、もしこの提案が否決されたなら、アジア卓球連盟の会長を辞任するつもりでいた。

 中国チームの大会参加は、日中文化交流協会の活躍に負うところも大きかった。協会理事長の中島健蔵氏の采配の下、事務局担当の白土吾夫と村岡久平の両氏は、東京_名古屋、東京_北京間を頻繁に往来し、中国側に後藤氏の考えをつぶさに伝えた。1、大会には、何としてでも中国チームに参加してもらう。2、アジア卓球連盟から台湾の追放案が否決されたなら、後藤氏は会長を辞任し、新たにアジア卓球連合を創立する。

 このように、後藤氏の決意は大変なものだった。

 71年、年が明けるとすぐ、後藤氏は村岡久平、卓球選手の森武、秘書の小田悠祐の3氏を引率して、中国を訪問した。「文革」の真っ最中でもあり、中国の中には、一部ではあるが、高飛車に出て威勢のいいことばかりを言う“左”の傾向があったため、中国の受け入れ側は、共同発表用の「会談メモ」に、「台湾は中国の一つの省であり、神聖にして犯すべからず」という文言を書き入れ、「中国を敵視せず」「『二つの中国』『一中一台』を作らず」「国交正常化を妨げず」の中日関係三原則の具体的な内容を明記せよと主張して譲らなかった。後藤氏は、「三原則」という文言を入れるのは賛成だが、具体的な内容を明記するのは不適当であり、卓球交流と試合を超越するような内容を書き入れないよう要求した。双方の意見が折り合わず、3日間進展のないまま過ぎてしまった。これには、後藤氏もほとほと困り果て、気を腐らして部屋に閉じこもり、ついに「面会謝絶」を宣言。

 このことが周総理のところに伝わり、状況が一変した。周総理は中国卓球協会主席代理の宋中氏はじめ関係者を集めて事情を聴き、次のように語った。「後藤先生の提出された『会談メモ』草案は、大変結構だと思う。先生は早くから中国へ来たい意思をお持ちであるし、日本の友人に対する諸君の要求はあんまりだよ。威勢が良すぎるのではないか?! 政治三原則については、『メモ』の第1条にせず、日本側の草案通り第2条のままでよい。後藤先生は『メモ』に『政治三原則』を書き入れており、おまけにアジア卓球連盟の整頓まで打ち出している。ということは台湾が全中国を代表できないことを意味しており、これで十分だと思う。その上に『台湾省うんぬん』は、蛇足だよ。第3条に『中国は第31回世界卓球選手権大会に参加する』、第4条に『両国の卓球協会の今後の往来』を書けばよい」

 周総理はさらに「君たちはこの後にすぐに後藤先生と会談を進め、妥結したら、今晩後藤先生に会おう」と付け加えた。

 宋中氏はその足で、後藤先生の泊まっている北京飯店に赴き、秘書を通じて「面会謝絶」宣言中の後藤氏に会った。

 「後藤先生、先生の提案に中国側は全て賛成です」と言うと、この思いがけない言葉にすっかり上機嫌になった後藤氏は、「それは本当ですか」と幾度も聞き返すほどだった。

 宋中氏はさらに改まって、「後藤先生、間もなく周恩来総理が人民大会堂で先生にお目にかかることになっています」と言うと、「えッ、それも本当ですか」と、まさに望外の喜びだった。

 大会が始まってからは、会場内では試合が熾烈に展開される一方で、会場の外では誰もが予想しなかった歴史的なうねりが動き始めていた。ある日、会場に向かう中国の専用バスに、何かの間違いで乗り込んだ米国の選手・コーワン君を、荘則棟選手が迎えて記念品のやり取りをしているうちに友達になった。米国と中国が対立していたときだけに、勇気のいることだった。ちょうどそのころ、米国チームの団長・スティンホーベン氏は中国代表団の秘書長・宋中氏と何度か非公式に接触し、米国国民の中華人民共和国行きを米国務省が解禁した旨を伝え、米国チームとして中国を訪問したい気持ちを漏らしていた。そのことはいち早く中国国内に報告されたが、残念ながら、「時期尚早」ということで、見合わせることになった。だが、ある日突然、国内から連絡が入り、OKが出た。なんでも、毛主席が床に就いて寝入った後、再び起きて周総理が上げてきた報告書を決裁したのだと後になって聞かされた。

 この特大ニュースは共同通信の記者・中島宏氏の特ダネによって、全世界を駆け巡った。

 4月14日、周総理は北京で米国チームと会見。その後、キッシンジャーの秘密訪中、ニクソン訪中と続くのだが、中米両国が日本の「頭越し」に握手をしたことによって、日本にも刺激を与え、72年の田中訪中と中日国交正常化へと事態が急速に発展していった。

 

 

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