あれから40年 中日平和友好条約締結を顧みて

2018-08-29 16:23:11

劉徳有=

 車が江の島に近づいた。柔らかな日差しに包まれた太平洋が目の前に広がり、波一つなく静かで美しかった。

 1977年1221日午前、中国駐日大使の符浩氏が90歳を迎えた日本の元総理片山哲氏を訪れると聞いて、私も取材のため同行し、神奈川県片瀬町にある片山邸に着いた。近所の住民が五星紅旗の手旗を持って、道路の両側に立ち歓迎してくれた。

 片山夫人の案内で部屋に入ると、片山氏はベッドに横になり、話すこともできない状態だった。符大使はいたわりの言葉を掛け、病弱ながらも日中両国の友好事業の発展に腐心した氏に敬服の念を表明した。

 20日ほど前のことである。片山氏は病床で書簡を口述し、その中で、速やかに日中平和友好条約の締結に取り組んでほしいと懇願し、福田総理に手渡すよう夫人に頼んだ。書簡には、「われわれ日本民族が、現在、そして将来にわたって友好関係と協力関係を深めるべき国は中国だ。懸案となっている日中平和友好条約を、共同声明の精神に基づいて早期に締結してほしい」と書いてあった。

 片山夫人の話によれば、福田首相に会って書簡を渡したことが報道されて以後、日本の各地、北海道から九州に至るまで、全く面識のない人も含めて多くの人々が電話や手紙を寄せてきて、片山氏の行動に熱烈な支持と励ましを送ったという。符大使は「これは片山先生の願望が日本人民の願望であることを反映したもので、その願いはきっと実現できると信じます」と夫人に言った。

 本来なら、72年の中日国交正常化後すぐにでも、条約が締結されるものと、私も含めて多くの人が踏んでいた。

 しかし、74年に田中首相が退陣し、三木内閣が成立するや、大方の予想に反して事態が急変。時の日本政府は、条約に「覇権反対」条項を入れることに極力反対した。「覇権反対」とは、「アジア太平洋地域においてもまたは他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国または国の集団による試みにも反対する」という内容で、中日国交正常化時に発表された共同声明にうたわれた内容と全く同じであった。三木内閣がこれに反対した背景には二つの勢力の動きがあると見られていた。一つは、三木内閣の中で主流を占めていた反中国勢力であり、いま一つは当時世界で米国と覇権を争っていたソ連である。ソ連に言わせれば、「反覇権」とは、とりもなおさず「反ソ」だというのである。

 こうした内外の反対、妨害と圧力の下で、三木内閣の本音は「反覇権」条項の取り消しであり、「日中平和友好条約」を締結する意欲のないことが次第に明らかになった。

 7612月に入り、三木内閣が総辞職し、福田内閣の成立によって、事態が一変した。

 そのころ、国際情勢にも大きな変化が現れたが、中国は「四人組」を追放してから、大規模な経済建設に入り、資本主義の国々との経済交流も拡大しつつあった。米国およびEC諸国が中国市場を重視し、積極的に中国に接近した。この現象は日本にとって大きな刺激となり、落後することを恐れた日本の経済界は、中国との経済交流の発展を図ろうとした。

 一方、条約締結を巡って、日本の政界にも新しい動きが出てきた。ここで、福田内閣の官房長官園田直氏に登場してもらおう。

 園田氏と言えば、54年の夏に北京を初めて訪問されたとき、私は接待役でお世話をしたことがある。当時、彼は国会議員の一人として、中曽根康弘氏らと共にストックホルムの世界平和会議に参加し、帰途、ソ連経由で北京に入り、東単の北極閣に泊まった。その時に聞いた話だが、彼は第2次大戦中に特攻隊員として戦争に参加したが、「玉砕」する前に日本の敗戦を迎え、何とか一命を取り留めたのだそうだ。園田氏は、官房長官に就任するや、直ちに中国と関係の深い、剣道五段の剣友北村博昭氏(園田氏は剣友会会長)を官邸に招き、うれしそうに言った。「福田首相と相談した結果、総理は日中平和友好条約の締結を決めてくれた。やったよ」「福田総理は私に、日中平和友好条約の問題を積極的に考えるようにとおっしゃった」

 78年7月21日、中日両国は北京で正式に条約締結のための交渉を開始した。

 7711月に官房長官から外相に任命された園田氏は訪中の日程を78年の8月8日に決めた。北村氏の話によると、当時、日中平和友好条約締結に関して日本国内には少なからぬ反対勢力があり、右翼団体は宣伝カーで外務省に対してデモを行い、自民党内の右翼組織青嵐会のメンバーも絶えず園田外相の家に嫌がらせの電話をかけたが、園田外相はそれに屈せず、厳しい言葉で反論した。園田外相は出発前、毎日水垢離を続けた。頭から冷たい水をおけでくんでは何杯も浴び、条約が成立するまでは帰国しないという決意を固めたというのである。8日の出発当日、園田氏は羽田空港から日本航空の特別機に乗って北京へ向かった。途中郷里の熊本県天草の上空に差し掛かると、彼はパイロットに頼んで、天草の上空を旋回してもらった。故郷の空の上で、死んでもこの談判の使命を成し遂げると心に誓ったそうである。

 事務方の度重なる交渉を経て、8月9日、中日双方は、「覇権反対」の条項を入れた条約の草案に意見の一致を見、8月12日、北京で調印式が行われた。その前日に、鄧小平氏は園田外相に会い、こう語った。

 「中日平和友好条約の核心は反覇権であり、反覇権は決して第三国に対するものではありません。しかし、誰であっても、覇権行為に走ることと戦争を発動する人には皆反対するものですが、これも決して第三国に対するものではなく、自国に対しても同様であります。目前の国際状況の下で、中国にとって、日本からの援助が必要であると同時に、日本にとって、中国からの援助も必要だと信じています」

 園田氏が剣友北村氏に語った言葉を記して本文の締めくくりとしたい。

 「世界各国を訪問し、数々の国の大統領や首相と会談したが、あえて言うならば、中国の鄧小平閣下のように度量の大きな、断固として事を処理することのできる人物には他に会ったことがない」

 

 

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